めるめど第11・12話視聴した。
かなり時間も経っていたし、いろいろおもしろい要素てんこ盛りなのかもと期待していたのだが、そうでもなかった。どちらかというと話を〆るために必要最低限の要素に絞り、それなりのクォリティで仕上げたって感じに見えた。ドイツチームについての掘り下げが少なかったのが判断の根拠。でも絞ったおかげで間が十分に取れており、ダイジェスト風味はあまり感じられなかった。
この作品のキモは現代日本に対するアイロニーが底流にありながら、皮の部分はあくまで既存の萌えアニメテイストであり、社会問題を笑い飛ばしながら前向きな態度で作られている点。この2話もそういう雰囲気がプンプン臭っていた。
前も述べたかもしれないが、感心するのは物語の成立に関する基本的なところを押さえているなと思われるところ。まるっきりのフィクションならともかく、昔話については、物語の原形があっても、それが地方に伝えられていくと、その土地々々でカスタマイズされていくことを柳田が書いている。昔話は得てして説話的な役割を果たしてきており、その土地の規範的要素やそれを教育していく要素があったわけで、また、聞き手が望むものを取り入れて少しずつ変化してきたものであるらしい。まぁ結局の所それもまた柳田が指摘した範疇なのかもしれないが、昔話ではキャラが死ぬ展開はかわいそうだから安直に死なない展開にしたり、みんななかよくなってエンディングというのとも違うと思うのだが、そういう部分を考えてテーマに取り込んでいるような気はしてる。
この第11・12話はもっと早めに公開されるはずだったのにこのタイミングということは、そりゃもちろん制作が遅れたと考えるほうが圧倒的に自然なのだが、平成が終わるタイミングに合わせてきたのかもと思った。アベ政権、今の今になって化けの皮が剥がれてきており、外交は最初っからボロボロではあったのだが、北方領土でゴールポストを自ら動かしてみせたりしてアベトモではない右翼から普通に反発を受けているようだし、あれほど宣伝してた経済政策も今の今まで企業でいうところの粉飾決算がバレてかなり日本経済ズタズタというのが明らかになってしまった。二階がリップサービスで総裁四期とか言ってみせても、大阪の地方選や補選、和歌山選挙区でアベ派に攻撃されているのをみるとどうもなぁといったところ。この2話分の政治批判要素がかなり薄いところを見ると、アベの悪政は忘れはしないけれども、ダメだったものに延々とこだわるよりも、元号が切り替わるこの時期に頭も切り替えていきましょうって感じなのかな。
しかしなんだな、最近見る作品どれもこれも「みんななかよくしましょう」ってスローガンばかりで個人的には辟易してる。あまりにも目につくのでなんか意図があるのかなと考えてみたのだ。変な話、単なる一視聴者の自分ですらそう思うので、そりゃシナリオライターさすがに視聴者にそう思われるのわかってるハズでしょというわけだ。結局テキスト側に、視聴者にしつこいと思われても敢えて書き続ける動機があると考えるのが自然というわけだ。
で、エントリーは変えるのだが
あまり詳細に書いてもなとは思うのだが、結局の所江戸期が終わってからの日本は一貫して分断の歴史なので、今この時期でテキストライターが危機感を抱いているのかなという感じ。分断というのは今となってはかなりの段階に達していて、整理してみるとちょっと驚くものがある。例えば日本の工業化に際し、工場労働者として徴用するためにヒトを地方から分断する必要があったわけだが、それはヒトと土地とを切り離すことであり、また労働者として家族から切り離すことでもあった。そして都市部や工業地帯に連れてきたそれらのヒトを、国が再統合したようにも思えないし、連れてこられたヒト同士が再統合しやすい環境すら整えようとしたようにも思えない。結局労働と報酬という関係性でしかヒトと資本は繋がっていないから、条件が良くなければヒトは積極的に職業移動を繰り返していたし、それでは都合が悪いから企業の方で擬似共同体を演出するようになった。しかしそれもバブル崩壊あたりから崩れ始め、今となってはほんの一部でかろうじて形を保っている状態。
ヒトがいろいろなものから切り離されている状態というのは家計のレベルでも前にも述べたことがある。自作農をやっていれば、人はいやがうえにも総合的にイエを運用することになるが、賃金労働者になれば経営というものを企業にアウトソーシングするようになるし、その他にも今までに子供の教育だとか介護、果ては家事までアウトソーシングするようになっている。家計で内部経済化していたものが外部経済化され、そこにカネの移動が発生するから運用次第で搾取効率を上げることができるわけだ。なので、最近子供は社会で育てるだとか言ってるが、正直アホなんじゃないかと思う。昔はいろいろなものが一体化してそれが社会からの逸脱からの防止柵になっており、というよりそもそも逸脱しないようなシステムになっていたのだが、そういう箍を一つずつしかし確実に外されて、ヒトとしての美味しい活動時期だけを搾取して、効率が悪くなればいつでもポイ捨てできる世の中になりつつある…というかもう既になっているようにも見えるのだ。
企業に目を向けてみれば、つい最近は終身雇用切り捨て発言が話題になっているが、昔は労働者の囲い込みのために自発的に企業が採用してた終身雇用を、今の経営層は自分が逃げ切るまでは温存して、後続にはあっさりと切り捨てしてるのを見て唖然とする。労働組合を見てみれば土光臨調からの流れで事実上崩壊状態。ちょっと前までは正社員のために派遣社員を奴隷化しても構わないという正規雇用/非正規雇用間の分断状態であったが、今や残存の労組の親玉である連合は、自民盗と結託して残業代0法案に賛成し、消費税増税にも賛成してるという地獄。つまりもう既に労組ですら正社員を切り捨てる段階なのだ。
とにかく自分のたった数十年という短い観測範囲でも昔はあったつながりはそういやもうないなぁ、そこかしこにあったはずのそれが気がついてみればすっかりなくなってるあたり、結構危機的な状態なのかもと思ってしまう。昔のテキストだと、「仲の良かった二人があるきっかけを境に仲違いしてしまう、だが周囲の説得や当人たちの気づきによって再び仲良くなる」というものが、今難しくなっている。日本人としての生活基盤の共有部分が少なくなり個人の価値観が多様化しているために、説得の内容や本人たちの気づきの部分に共感できる要素が少なくなってしまうからだと思う。「オマエが大切の思っているそのことはオレにとって大切ではない」ということだ。だから和解の物語に多数を巻き込むことができないわけだ。だからといって価値観が多様化した状態を肯定して、「オマエが大切に思うそのことは他人をいくら苦しめようと己が進む道を信じて進め」というものにできるはずもなく、かといって多数を共感に巻き込む和解の物語も用意できないとあっては、ただひたすら愚直に仲良くしろとスローガンを叫び続けるしか無いのかなと思ってみたり。