マギアレコード
こりゃ全然話終わってないだろ…と思って公式いったら案の定2nd Seasonの字が。エンドカードイラストで視聴ありがとうとあったからもしかするとこれでお終いかという可能性も考えていたのだがさすがにそれはという。
うーん、難しい感じ。すごくスロースターターな作品で、最初の頃はパンチの足りない印象が強かったのだが、かといってテキスト自体に力が無いわけではないのはわかっていたし、まぁ多くを期待せずのんびりつきあうかという態度で視聴してた。で、話数が進むと、こうなんというか、最初は全体に霞がかかって全体像も細部もよくわからなったのがだんだん霧が晴れてフォーカスが合ってくるそういう感じがして、まぁ悪くないんじゃね?みたいには感じていたので、終盤にかけての盛り上がりはそれなりに緊迫感のあるものになってたと思う。
しかしなんだね、この作品を視聴しようかという層は、おそらく自分のようにまどかマギカを視聴済みという層や、ゲームをやってる層だと思うんで、魔女が魔法少女の成れの果てというのは予め知ってるだろうし、そのへんを織り込んだ上で表面上ゆるい作りにしてたんだろうなと思っていたんだが、こう変則2クール前期が終わった今振り返ってみると、別にこの作品からマギカシリーズに入った人でも十分楽しめる内容になってるのには少々感心した。というより、それ実現するのけっこう大変でしょと思う。
最終回としても、1期のまとめとしても2期へのつなぎとしても、マギアシリーズのテーマを一旦整理するという意味でもよくできていて、それが今回のあの演説に集約されていた。ただ、あの演説をそのまま受け取るのは危険で、とりあえず立ち位置を示すって感じのものであると考えておくのが吉だろう。
というわけで、あんま本編の内容に触れずにまとめてみたが、あの虚淵の後釜は結構周囲の期待からするとツライものがあるだろうが、今の所大外ししてない感。もしかしたら視聴を辞めた人もいるだろうけど、個人的にはあんまりケチのつけようはない感じかねぇ。フェアリーゴーンのように力を入れているのはわかるが、アレには個人的にはその気持が上滑りしているように感じていたのが、この作品にはそういうものはないので、素直に2期に期待といったところ。
虚構推理
最終回ということで、なんかいつもと違ってセリフが聞き取りやすいし、展開がしっとりしてる雰囲気。とはいえ、実はこの最終回は個人的にはいつもしているながら視聴ではなく、割と集中していたのでそれが影響しているかも。とはいえ、こう、今まで事件に振り回されていたことからすれば、事態が動かないので、逆に今までのマシンガントークとは対照的に見えるのは確かなんじゃなかろうか。
うーん、個人的には鋼人七瀬編での琴子の切り抜けはあんまり力がないと思っていたので、そのへんが気にかかる。そもそも都市伝説を信じてしまうような人たちに、わざわざ論を尽くして説得とか、そんなの感情を揺さぶったりとか大量動員とかのネット工作にかなうわけ無いだろうと思うので、なんか激闘の末打ち負かしたという流れになってるけど嘘くせえみたいな感覚を持ってる。ただ、それを除けば大枠で、「都市伝説に振り回されるような人たちなのだから、真実を積み重ねて説得することに意味はない」からの、「ならばウソに振り回されるのだから、より信じたくなるようなウソで騙せ」という提示は、いちおう構造では見るべきところがあると思っているので、そのへん惜しいといったところ。これは前にも言った通り、例えばアベがウソにウソを塗り重ねて自分の犯した犯罪行為から目を逸らしているのに、そこに事実をつきつけたって通用するわけ無いだろみたいな主張につながる。ただ、物語で解決したその方法は現実では全然真実味はないだろうというだけの話。ただ、やはり思考実験ではあるので、そこに関しては、現実に生きてる人(視聴者)たちに対するメッセージにかろうじてなってるという感じ。まぁ原作側に立って言えば、もしかすると現実にも通用するかもという展開にしてしまったら、逆にリアリティがなくなってしまうということ。つまり、現実だとてんでお話にならないような解決方法だからこそ、虚構としてテキストが成り立つというワケ。いや、だって、本作のメインテーマの1つが「虚構」だし。ただ、そういうのは個人的にあまりに諧謔風味が鼻についたというお話。作品世界で鋼人七瀬を現実化して人まで殺させてるんだから、それだけ都市伝説を現実化させる人々の思いが強かったんだろうぐらいの下ごしらえは欲しかったかなという。
六花の目的も個人的にはイマイチ。本当にフツーの人間に戻りたいのなら、むしろ岩永に協力してもらったほうが話が早いのでは?とか思うので、六花が能力を尽くしてトラブルを撒き散らすという形をとったのは、シリーズを長続きさせるための方便なのでは?と邪推してしまう。
というわけで、全体的に大きくダメだっていうわけでもなく、全然楽しめたんだけど、発想の面白さとかドラマに没入できたのは個人的に終盤に差し掛かる前までだったなぁという。作画も潰れないし動画の枚数を梳くのも職人技だなぁと思ったんだけど、いざ終わってみたら平均的な作品だったような気もする。
推し
アイドルフェスで精神的に不安定にさせ、今後の活動に向けて喝を入れて〆。思ったより悪くなかった。アイドルものに関して、自分常々、アイドルなんて結局の所チヤホヤされたいってのが動機だろうなと思っているのだが、ただ、それも実際にアイドルの門を叩いて入ってしまうまでの話で、一旦門をくぐれば変化が著しいものだと思ってる。最近のアイドルワナビーは、それこそ幼少時に物心のつかないときから親がアイドル用の、やれピアノやバレエだの、ダンススクールに通わせるだのといったいわば英才教育を施してる。だからアイドルという、単にアイドルを支持する層の思いを仮託するための木偶としての偶像で何の才能もない見かけだけの存在では決してなく、それこそ一芸だけでなく何芸にも秀でているわけなのだが、そういう才能を持つ彼女たちが、自分の持っている才能を活かして「タレント」や「アーティスト」ではなく、なんで「アイドル」を志望するのか?といえば、もう深層心理意識から先程のチヤホヤされたいというところに集約されると思う。
だが、一旦アイドルになってしまえば、売れるためにはファンになりうる人たちに支持してもらう必要があるのであって、そこに自分がそれまで培ってきた価値観が大きく揺さぶられることになる。ヘンな話、ファン層のいわば純粋な思いだけでなく、それこそドロドロとした欲望も含めて受け止めなければならなくて、単に歌をうまく歌う…とか、ダンスをうまく踊る…だけでは決して支持されないことに直面するわけだ。それこそよっぽどアイドルとファンとのそういう関係性に熟知していたならともかく、大半のアイドルワナビーがアイドルの門をくぐり抜けるまでに思っていた輝く自分なんて、最初の下積みの時期から打ち砕かれるわけなんだが、それが下積みを経験することによって一人ひとりのファンがアイドルに何を仮託しているのかを考えてそこで葛藤することになるわけだが、それによって自分が想像していたアイドルのあり方の軌道修正を何回も行って、それで淘汰を経て徐々に人気を獲得したり、とうぜん淘汰なのだから夢破れるということになっていく。で、オモロイのは、自分ラジオをつけっぱなしにしているせいか、土日の20時台からアイドル番組があってそれを耳にすることが多いんだけど、国民的アイドルの一角を担うぐらいの人気アイドルでも、なんでかやめてしまうのもいて、あぁ、ファンの思いを受け止めきれなかったとか、アイドルの世界が自分が考えていたのと違っていたんだなとかいろいろ想像させられて、こう業が深いとか、奥が深いだとか、善悪混じり合った複雑な感情を巻き起こされることが何度かある。それなりに売れてるアイドルですらその世界から退場するのもいてなかなか複雑なんだろうなとは思うが、やはりなんのかんのいって生き残るアイドルというのは、あんまり突き抜けているって方向性ではなく、むしろ包容力だとかが増して人間的な奥深さが感じられるようになっていくように思う。人間の良いところも悪いところもすべて含めて、まぁ清濁併せ呑むように変化していかなければやっていけないのだろう。そういう厳しい環境だからこそ磨かれる人間性というのがそれなりに存在するんだなというのが感じられてそれはそれで面白い世界なんだろうなと思ってる。
で、そういうアイドルのあり方のまぁ綺麗事を皮としてまといながらも、その欲望のどろどろした部分の多くをファンであるえりぴよだとかくまさに担わせながらも、その成長の部分を丁寧に描いていたのかなとは思う。最後のシーン、特にチェキのツーショットのあの1カットに象徴されるように、アイドルとファンの立ち位置が同期した瞬間を示していたのであって、あれは要するに「自分が欲しいものは与えることによって得ることができる」の絵になってる。アイドルにとっては有名になるためにはファン層の思いを受け止めることが必要で、ファンにとっては自分の気持をぶつけるだけではなくて、アイドルにとっての力になることであり、決して相手から何かをもらうばっかりだとか、あたえるばかりの存在ではなく、それぞれが相互相補的な関係になる必要があるわけだ。そういう状態になったとしても、やはり全国的なアイドルになるには「努力が必ず報われるわけではない」という試練があるわけではあるが、でもその関係性の把握がなければ売れるための条件すら整ってないということになる。アイドルなんて容姿優先という要素も大きくて、もちろん作品では可愛いキャラデザになってるし、ファンがアイドルに対してかわいいというセリフを向けているのではあるが、この作品全体を通じて、えりぴよたちファンがそういう容姿面で支持してるんじゃなくて、成長途中のアイドルの人間性に惹かれているように最初っから描かれていたのは、まぁなかなかやるなといったところ。
しかし世が世なんで、しかも政権批判職の強い作品が多い傾向なんでどうしても比較してしまうんだが、やはり政治屋の動機*1も結局の所あんたらちやほやされたいだけなんでしょということもあって、政治屋とアイドルの落差に愕然とさせられる。今回ファンがアイドルに「積む」のもアイドルの努力や実力のおかげだが、政治屋がカネを手にするのは他人から与えられるのではなく「他人から奪う」。アイドルが人気を獲得するためにはファンの願いに向き合う必要があるが、政治屋は「勝手に自分にだけ都合の良いルールに作り変えてアンフェアな方法で相手を蹴落とす」。もう考えていくとキリがないのだが、昔はともかく、今の自民盗に代表される政治屋の大半は社会を壊すようなことしかやってない「純粋悪」としか言いようのない連中だが、アイドルはもうそういう政治屋がやってるような悪とは対極にある存在。たとえアイドルが人気取りのために観客側にサクラを紛れ込ませるにしても、その費用はアイドル側が負担するしかないが、政治屋が例えば人気があるように見せかけるために支持率の捏造をしたりしても、それはもとを正せば税金という他人のカネを盗んでやってるわけなんで、このアニメが時期的に見て政権批判のために映像化されたというタイミングでないのは明らかなんだが、そうでなくてもやはり政治屋とアイドルの対比がまざまざと思い知らされる結果になってる。
あと、重要なのは、たしかにこの作品岡山が舞台だし、ロコドルを題材としていてそれなりに地方ということを匂わせてはいたんだけど、視聴し終わって全然地域おこしだとか、衰退する地方の描写なんて要素はなかった。なかったのだけども、終盤のアイドルフェスの描写を通じて、都市と地方との対比が巧妙に紛れ込まされているのに感心してしまった。都市部のアイドルは描かれてないんだけど、地方のアイドルのファンの少なさ、ロコドル同士の競争を通じて、「都市部のアイドルは米蔵のネズミ」ということがぼんやりと想起される。同じ努力をしても得られる反応は都市部のほうが圧倒的に多いんで、当たれば大きいし結果もスグ出る。ところが、地方だとそういうわけにはいかないんで、まぁ現実のロコドルはよっぽど大当たりしないとスグに消え去ることが多いし長続きしないんだけど、さすがにそれでは物語にならないから下駄を履かせてはいるけど、やはりこう都市と地方の格差を匂わせる構成はこの最後の数話で感じられてなかなか侮れんなといったところ。