くまみこ 第12話

 うーん、これで炎上したのか。
 この感想を書き始めるにあたって、ちょっとggって炎上騒ぎを目にしてみた。原作未読ではあるが、アニメでは仙台に行っているが原作では行っておらず、仙台の人に石を投げられる夢を見て仙台行きを断念、都会の高校に行くのをやめるというのはアニメも原作も一緒らしい。あと、ちょっと驚いたのは、第11・12話(第9話)はアニメオリジナルらしいが、それ以外は「原作を絵コンテとしていると思われるぐらい原作に忠実」という評判だったらしい。しかもあとで原作者が発表したのには、アニメオリジナル展開にする際に原作者に相談したらしいが、原作者が仙台行きを提案したらしい。確かに自分も第9話や前回のもつインパクトは大きいと感じており、そこにアニメの意図が強く感じられるのではあるが、それにしても原作者もそれほどでなくても過疎問題についてはそれほど大きな相違点はないんじゃなかろうかという印象も受ける。まぁ、あくまで原作との違いを問題にするんじゃなくて、アニメが語ろうとしていることは何かということについての感想なのでそこはご容赦願いたい。
 自分か今回違和感があったのが、繰り返されるまちの妄想。コンテストでは受けているのは喝采なのに、それがまちが石を投げられるという妄想になってる。おかしいのは、ちょっと前にデパートの屋上で小さな子供に握手まで求められてほだされているのに、これはない。普通だったらこの小さな子供の応援に力を得てなんとかやりきって栄冠を得るって展開にするはず。控え室でも好意でほかの出場者に話しかけられても、まちのなかでは蔑まれるという妄想をたくましくするという展開になっていたが、まぁこれは百歩譲ってありうるとしても、物語のフォーマットに従えばやはり成功裡に終わるという展開にするのが普通。だからそうしなかったというからにはそこにはスタッフの強い意図があると見るべき。むしろ視聴者からそれなりの反発があるとわかってなおあの展開にしたと解釈するしかない。
 まぁ自分なりにいろいろ考えをめぐらせて見たのだが、今のところあれはやはりまちの正しい解釈なんだと思っている。ほかの出演者の悪意表現にしたって、結局まちはぽっと出でアイドルになる決心も中途半端だから、ほかの出演者にしてみれば初めっから敵ではないわけだ。間違ってコンテストで優勝しても継続性はないだろうから、途中で脱落する。だから優しくできるわけであって、悪意表現はやりすぎにしても、いずれいなくなるぐらいの認識ではあったろう。喝采を送った観衆だが、これも別に過疎問題という重責を担ったアイドルに対しての理解や同情を示しにコンテストを見に来たわけではない。アイドルの情宣いかんによってはその土地に興味を示すかもしれないが、所詮アイドルがどれだけ目を楽しませてくれるかという首尾一貫した消費者目線なのであり、それは抱えている問題を一緒に解決してくれる仲間という立ち位置では決してない。そういう都市の持つ暴力性をあの形で表現したのかな…ちょっと誇張が過ぎるがという感じに把握するしかないかなといったところ。巫女はもともと感受性が強いものがなるという傾向があるから(神託を受けるとか、神を憑依させるならそういう特性がないと…)、まちが人々の心の奥底に隠されたものを抉り出してそれを直接受け取ったと考えてもそうおかしくはないだろう。
 あとは前回述べたとおり。誰も彼も問題を認識しておらず自分の都合で日々生きているだけ。良夫にしたって本質を理解して村興しをしているのではなくって思い込みだけで動いているってのも前回に述べたとおり。特産品を売り込むどころか、インターネットで都会のものを取り寄せるという結果になっているし、基本問題から目を逸らして今を享楽的に生きるという結論は前回視聴して把握した構造からは当然の帰結というしかない。ちょっと残念だったのは、地方民が問題から目を逸らすことを批判的に描いていながら、ではその解決がそもそも彼らに可能なのか?、こういう状況になっているのも都会が地方から搾取を続けてきた結果であって、彼らに問題意識がないことを批判する以上に、そういう流れにした政治や都市の人間の傲慢さに対する批判がほとんど描かれていないこと。ヘンな話、カネ持ちの子供に生まれるか、貧乏人の子供に生まれるかで大きくその後の人生が楽か厳しいかを左右するのであって、個人の努力はその初期条件のハンデに比べると全然影響力は少ない。結局運が良いかどうかの話だよという視点がないんだよな。こういう構造的な視野を持ち合わせてないと、単に田舎は努力しないから限界集落化するんだよという批判は傲慢以外の何物でもない。
 正直この作品の評価は難しい。もともと過疎問題なんて時間が経つほど難易度が上がる問題であって、そういうのをすっきりした構造で示すってのは難しくなってる。で、そういう状況を伝えようとしているという側面があるのは見受けられるんだけど、かなり見えにくゝて?という感じ。おそらく原作での純朴美少女と熊とが戯れているさまを見てほっこりする層がそのまゝアニメの視聴者層になっているんだろうけど、そいつらになにぬるま湯に漬かってんだよ、もっと現実に目を向けてみろよという側面もあって、だからこそ最終回が炎上みたいな騒動を目にしても、その批判は当たらないよぐらいには思っている。そしてその齟齬に対するアニメスタッフの焦りというか投げやりさみたいな部分が作りにも現れている感じが自分にはして、気持ちはわからないわけでもないが、どうにも感心はしないなといったところ。