リトルバスターズ! 第39話

 世界の謎だとかもったいつけていたよな。
 結局総括すると、修学旅行時に事故に遭った恭介が、死ぬ瀬戸際に動ける理樹(鈴)を魔空間に誘い込み、人格矯正を行って全員を救出した話になっていた。第1期のエピソードは、事故以前に体験したことではなく、恭介の作り出した魔空間での仮想体験なんだよな。そう考えると、このなんていうのか、事故にあってから理樹が目を醒ます間のほんのわずかの凝縮度は凄いというか。
 泣ける、泣けるんだけど、アレ?といった感じ。最后に理樹の過去話を配置するなど、それぞれの不幸話が理樹に向かって流れていく様(そういや恭介の不幸話はなかったな)といった構成などもうまいなとは思うんだが、いざ話が終わって振り返ってみると、理樹の修行場を構成する壮大さからすると、なんかちょっと拍子抜けする。いやそりゃ災害時に死者が出ないってのは大層なもんなんだけどサ、そこはフィクションだから何人殺すか生かすかは自由なわけじゃん。自分なんかは恭介が救出されるかされないかわかんないなと思いながら視聴してたけど、こういう結末ならバスを最后爆発させなくてもいゝというか、させちゃイカンでしょ。危機一髪だったというのを表現したいんだろうけどさ。
 というわけで、なんか最后に災害の描写があったとことか、この世での未練だとか、かけあいが快楽指向型だとか、AB.との関連を思い起こさせるも、いわゆるギャルゲ、エロゲのテキストの範疇に収まっていたというか、いやまぁ友情といわれゝばそうなんだけどね。個人と個人の感情の組み合わせはとてもうまいとは思ったんだけど、社会との関連性が全く描かれていないとか、もう徹底的に仲良しグループでの内輪受けに終始していたように思う。リトバスの面々の抱えていた問題は、結構外部由来のものが多かったと思うんだけど、そういうのが外部への働きかけや対決などがあまりなく、内部で昇華してしまうというか。それはそれで美しいんだけど、世界の残酷さとか、むしろそういう外部との干渉だろうにと思うんだよね。
 いや、もう今うまくいっていないのは自分の性格であって、それを乗り越えることが明るい未来を築くだとか、いやさ、確かに昔と比べて個人ツールが肥大化して個人としての社会性が低下している時代なんだろうけどさ、個人が原因でそいつがグルグルまわってるだけで、他人に迷惑かけてないとか、傍から見てちょっとなぁとは思いながらもそいつ自身は満足してるんだったらそれはそれで構わないわけだよ。問題は、やはり他者との関わりにおいてコンフリクトを起こして社会が機能不全を起こしているってことでさ、特に強者がその強者である由来に強者自身が関係ないのに、それでその強者が弱者に権力をふるって、そういう構造が固定化されて、弱者はいつまでも搾取され続けるってことでサ、そういうのは兄の死によってふさぎ込んでしまった小毬以外はみんな抱えていたことでしょ。自分が第1期に感動して視聴していた部分はまさにそこで、困っている人に理樹が入り込んでそういう構造を個人としてゞきる範囲でなんとか受け止めたり受け流していたりしたんでさ、2期としては、もっと別のエピソードが用意されているとか、集団としてのリトバスが、その行動範囲を広げていくとか、社会との関連性を滲み出させてくるとかそんなのだと思ったわけよ。修学旅行事故の設定からしても、理樹が拡大リトバスメムバーを助けたいと思った動機は、修学旅行事故直後の恭介が理樹に見せた疑似体験が元であって、修学旅行前に理樹は小毬らのニューリトバスメムバーとはあまり面識がなかったわけで、なんかそのへんいつまでも一緒にいたいというのを理由にするのはズルいと思ってしまう。
 ホント、ヘンな話、泣ける話だし、構成は上手いし、かなりクォリティは高くてエンタメとしてはかなりレヴェルの高い作品なんだけど、この作品の持つメッセージ性に関しては「いや、ちょっとこれは」という印象を持った。まぁどうでもいゝんだけど、自分のいる社会に疑問を持ち、それと対決しながら社会構造を明らかにしていくって展開のAB.ほうが良かったかなといったところ。そりゃABのほうが後発だろうからそのへん考えられているってことか。個々のエピソードは秀逸だったので、惜しいといったところ。一般性を考えると、自分が不満に思っていたことは些細なことではあるので、結構よかったと判断する人は多いのではないだろうか。おもろ+。