リトルバスターズ! 第26話

 別にサヨナラゲームでも無かった点について。
 キレイに終わったな。というか、続編の案内で終わってないという形になってしまったケド。
 で、続編ヌキに考えてみると、これはなかなか最近のアニメではあまり見られなくなってしまった整ったエンディングのような気がした。うーん、それも原作連載中のアニメが多いせいかな?。でも次号予告のあのシーンをカットして考えると、これほど美しい物語もないんじゃないだろうか?。
 ふと思いついたのが、咲との対比。いわゆる組織論だ。咲の場合、いろいろなテストケースがあり、個人個人のつながりの描写が短く、リトバスの場合丁寧にやってるというもの。基本組織というのは互酬性で成り立っており、リトバスの場合、理樹のリーダーへの成長というジュブナイルになっているんだが、そのへんなんとも基本を押さえているように感じた。咲の場合でもそうだったが、基本リーダーはメムバーの面倒を見ながらも、その特長を生かすということを行っている。
 反面、日本の企業文化の劣化を感じざるを得ない。もう日本企業のブラック化が言われて久しいが、そういや昔からそうだったっけ?みたいな頭を抱えてしまうような感じに囚われてしまう。就業規則で縛るクセにサビ残だの経営者・管理職の犯罪は絶えないし、もうリーダーとメムバーがカネで縛るだけの奴隷関係になってしまっている組織が多いのではないか?。それほどまでゞなくっても、運命共同体や互助であるという風土はなくなってしまっているように感じる。
 作品を見ていて疑問に感じていたこともあったのだが、理樹と恭介の知り合うきっかけなんだよな。閉じこもっていた理樹に活動的な恭介がどうして知り合う機会を得たのか。まぁそれを言ってしまったらこの物語は始まらないので置いておくが、昔の日本の組織だって、就職のおりは知り合いを頼って就職するということ以外、結構な数の新人が、初めての組織に入っていたわけで、それで今のようにギスギスしていなかったように思えるのはなんでなんだろう?ということだ。
 で、結局のところ、企業ではやはり人を運命共同体として受け入れる素地があり、また、新しく加入するほうでも、受け入れられるための素地が身についていたんじゃないかと思うのである。まぁこれだけサラリーマンが多くなってしまった現在では想像もつかない世代が多くなってきているとは思うんだが、日本が農村社会であったときはやはりムラは運命共同体であって、そのなかで必要なものは培われていたんだと思う。それが企業が発展していく時点ではそういうのが身についていたのが運営側にもいたんだろう。もちろんムラとは違って、他の文化を見につけたメムバーが加入してくるわけで、まったく同じというわけではないが、そもそもがムラと同じような“組織とは運命共同体である”というのが自明と考えている(というか意識すらしていない)人間ばかりなので、そういうムラの性質が今まで続いてきたんだろう。
 で、結局のところ、組織は運命共同体であるという文化が廃れて、今のような“日本企業ギスギス状態”になっており、そうじゃなくって、そういう互助・互酬的なものに戻るべきなんじゃね?というのがこの作品のメッセージなんじゃないかという気がする。まぁこの作品でそういう企業や、学校ですら、それらが運命共同体ではないという描写(学校にいたっては三枝・わふーのように、個人を攻撃する主体として描かれている)であり、おそらくそれらの今までのあり方がまさに日本の組織のブラック化の主要因であると思うんだが、まぁそれもおいておくとして、やはりこの作品はそのメムバー集め、いわば組織の立ち上げを描いていたんだろうなという気がしている。おそらく続編では内輪揉めのようなシーンが描かれていたから、組織運営時の苦難とかそういうのが描かれるんじゃないか?。
 というわけで、テキストゝしてはドン臭いところがあるものゝ、さすが葉鍵というか、「泣き」のポイントを押さえて、象徴的に訴えかける部分はもうなんとも文句のつけようもないと言ったところ。OPもなかなかに昂揚させられるし、何気に老舗の貫禄だな。続編がある作品いついては最后まで視聴してからの評価をすることが多いんだが、今の時点でかなり名作に近いおもろ+だと感じた。