ガッチャマンクラウズ インサイト 第9話

 なるほど、くうさまのくうは、空気のそれか。
 同調圧力という単語よりいは確かにしっくりくる。しかしなんだな、こうやって提示されると、本当に日本の問題は空気なんだろうか?という気になってくる。確かに江戸時代あたりの、人の移動が法で禁じられていた時代は、重税に耐えるということもあって、村落共同体としてお互いが協力・監視しあうというのが日常であって、だからこそ空気を読む、同調圧力に従うということが理屈抜きに身についていたんだろうけど、今はちょっと違うかもと思い始めている。そもそも明治政府自体が、国民を工場労働者&兵士に転用するために、農民を土地から引き剥がす、つまり村落共同体の解体が始まっていたのであり、そうではあっても、例えば先の大戦やそれまでの徴税あたりでは地縁・血縁を利用した同調圧力を用いて全体主義国家を作り上げていたわけ(旧軍の軍人は農村の頭脳の良い人間が上層部に多い。特権階級はむしろ陸士海兵に行かずに大学に行って特権階級の地位を強化していた)だが、戦後は言うまでもなく世界の工場として一時期日本が君臨していたことからもわかるように、より地方から人間が都市部に集められ、同調圧力の源泉である村落共同体は弱体化していった。高度経済成長期を経てバブルが弾けても、むしろ村落共同体の代替物であった会社々会は人を切り捨てるようになり、共同体を成り立たせる要素であるところの同調圧力は益々弱くなっているのが実情だと思う。
 但し、徳川300年の治世が育み、全体主義国家としての日本がうまく利用したように、まだまだ同調圧力の残滓は健在であって、それは今回のような描写としてしっくりくる。しかし、それぞれ描かれていた場面で通用していた空気というのは、例えば学校でのつきあい、団地での子供を媒介としたつきあいという、別に運命共同体でもなんでもなく、経済的な共同体でもない、一時的な腰掛けでしかないつきあいであって、人員や環境の変化でどうにでも雲散霧消してしまうもの。同調圧力に従うことでよい思いをするのであれば支持もされようが、いやな経験しかしなかったら次からは距離をとられるという形で徐々に崩壊しているのではないかと思うわけで、むしろこれからは、分断化され、寄る辺無き身になった国民が、考える力も奪われて、情報操作によって扇動されて、不安を煽られてポピュリズム政治に利用されてピーキーな社会の揺れがおこってしまうことで、これが特に今顕著に現れているのが世界の先進国でのムーヴメントである右傾化の流れなんじゃないかと思うのである。
 言うなれば、この作品は惜しいことにちょっと時代遅れみたいな感があるわけだが、とはいえ、その世界の大衆の痴呆化による右傾化の流れは割と最近のことで、そうであってもこれはまさにガッチャマン側の丈が言うとおり、やはり人間が自分の頭でものを考えるべきという主張が有効なのはその通り。
 まぁ自分の見立てが正しいかどうかもわかんないんだけど、共有されている何物もないのに同調圧力がそんなに有効に働くかねぇというのが現時点での自分の疑問。もちろん日々生き延びるために自分の考えを枉げて一時的に何かに従うってことはあるだろうけど、一人の人間としてそうすべきことであるという行動原理、というか組織の構成員としてやるべきことであるという昭和期にはまだ残っていた倫理的なというか宗教的な魔力はもう失っているんだろうなとは思う。