ユリ熊嵐 第10話

 なんつーか、最初から大好きで最初から大嫌いとか言わせてるから、イジメは好きの裏返しとかいう結論にしてしまうつもりなんだろうか。
 さすがにそれはないとは思うが、なんか自分としてはあまりこの作品に対してそれほど強烈な切れ込みは感じなくなっているというか。もっとイジメに焦点を当てゝいるのかと思ったら、自分の印象では昔のメロドラマによくある、イジメはヒロインを引き立てるための要素に過ぎないんじゃないかと思わされる。もちろんイジメが単なる修飾に留まらないだけの解説はしてくれているんだけど、あくまで力点はそこにはない感じ。
 ではこの作品の重要課題ってどこにあるのか?と振り返ってみると、そもそも熊とは何のメタファーで、断絶とは何か?というのもわからない。人間側が排他的な同調圧力を多用するどうしようもない村社会構造の描写から日本のそのような組織というのを表しているとは思うんだけど、では熊が単純に在留外国人だとか、日本人でありながら村社会的なあり方に馴染まない異質な存在というのを表しているともちょっと思えないんだよな。昔は熊と仲良くしていたのに、今の今までそれを忘れていたというのも、例えば、高度経済成長期やバブル、失われた30年の狂騒の時期に能天気に忘れてしまっていたが、もともと日本はそういうあり方だったみたいななにか日本の制度とか慣習だとかを表しているにしては、ちょっと手が込みすぎていてメッセージが届く層が非常に限定されすぎというか、そういうのがそもそもあるのかとすら思う。
 まぁピンドラにしたって、作品を通底する芯の太いメッセージは運命共同体になるぐらいしかなかったから、基本雑多な要素の組み合わせというか喰い散らかしだったことを考えると、いろんな要素に気を配らないわけではないが、基本はぐらかし程度の仕込みしかしてない可能性は十分にアリで。