坂道のアポロン 第8話

 鉄ちゃんにも春が!。
 いやいや見事なフォーマットぶりではあるんだけど、面白いのは学生運動にのめりこんだ男についていく女というパターンが、闘争中の男に惹かれてというのではなく、傷ついているのを厭わずってとこ。とはいえ、木綿のハンカチーフの歌詞通りの展開といえなくもない。自分なんかは職場の先輩に昔の女はこうだった…って話を聞いたことがあって、それが百合香*1であったりするんだが、あぁこうだったんだなと目を見開かされるばかり。その先輩の口調だと今時の…といえば自分の世代の女も今時に分類されるような感じで、それも実体験に近い。いや、なんていうか、凄く複雑な問題だと思うんだけど、男女平等というのはそうあるべきではあるんだが、だからといってアファーマティブアクションだとか与える形で権利が得られてしまうとおかしなことになってしまうんだなと。だからといって男女平等ではない状態が恒常的に続くのもおかしいわけで、どうすりゃいゝの?と頭を抱えてしまう。↙
 話が逸れたついでに言及させてもらうが、武士階級あたりはともかく、あまり面子とやらが要らなかった社会の構成層に至っては、あまり男女が不平等って感じではなかったらしい。明治に至って近代化がなされるわけだが、それ以前は家業は家族全員で担っていたわけで、そこには分業という考えはあっても女性蔑視という観点はなかったらしい。それが近代以降男が産業に雇われで働くことになり、外で貨幣を稼ぐ男の仕事と貨幣を生み出さない家庭内労働を担う女の仕事の間で優劣がつき、それが男性上位に繋がっていったんじゃないかという考察がある。しかも先の大戦では男を戦場に駆り出すために政府自らが男性上位という宣伝をしてしまったわけで、もともと社会的にはそれほど男女間での不平等が無かったのが近代システムが女性差別を新たに生み出したという側面が大きいということだ。学生運動が描写されたおかげで、はっきりとこの物語の時代が'60年代と特定されたわけだが、この時代は田舎だと(都市部でも割と残っていたらしいが)その近代以前の価値観が色濃く残っている様子が窺える。
 しかも近代というか資本主義の恐ろしいところは、近代もしくは資本主義がもともとなかった女性差別を生み出した本体であるのに、今度はその女性差別をなくすのに男女とも労働力として駆り出すという形をとったことだ。要するにカネを稼ぐ労働力としての性別は問わず、男であろうと女であろうとカネを生み出す労働力ならば安ければ安いほどよく、今度は労働力が安売りされることになり、男女差別の代わりに産業資本(家)と労働者の間の格差が拡大して、低廉労働者というあらたな差別対象が生まれた。しかもその勢いは留まらず、子供までも産業に駆り出されていく始末。自民盗が今文部省にやらせていることは国民が産業に搾取されるのを是とする教育であり、それこそ近代以前は家族が家業としてまとまっていたのが、産業勃興時には家庭から男を引き剥がし、男女雇用均等法以降は家庭から女を引き剥がし、今家庭から子供まで引き剥がしにかゝっている。家庭から女を引き剥がした時点で人間の再生産能力が奪われ、少子化になっているというのに、それでも飽き足らず子供まで職業観云々という理屈をつけて家庭から引き剥がそうとしている。とうとう行き着くところまで来てしまったという感慨があるねぇ。
 というわけで、近代以降「若者組」だとか「娘組」という役割が地域から失われ、それに代わる存在が「学校」ということになるのだが、社会的にはその範疇で出会った淳一と百合香を千太郎だとか周囲の仲間がいろいろな思いは胸にあれど心にケリをつけてまとめようとしている段階*2であって、これはやはり近代以前の日本の習俗にあたる。
 そういった意味で、これは確かに日本の原風景を描こうとしているし、ある意味昔こういう物語がなんで(ワンパターンなのに)あたりまえのように受け入れられていたのか今更よくわかってしまう。今でもそういうパターンはあるのだが、見合いも日本の原風景ではないらしい。見合いはあっても武士階級のものでしかなく、昔の日本の風習としてはその土地の若者同士がやはり「若者宿」や「娘宿」などの調停機関を通じて結婚に至るのであり、それが崩れるのが物流が農村内で完結しなくなって他地域との交流が盛んになってくる時代になってからだ。つまり嫁取りを同じ地域内で行うのではなく、よそからつれてくる場合に「見合い」が必要となり、近代以降人間が土地に縛られなくなってから「見合い」が盛んになってきたわけだ。昭和初期には大部分が見合い結婚だから昔から見合いが一般的と捉えてしまっては見誤ってしまう。見合い結婚以前の結婚は言うなれば恋愛結婚ならぬ「馴れ合い結婚」であったのであり、二人をめあわすのが村(の若者)全体だったのが、見合い結婚で家族と一部同士になり、それが現代の恋愛結婚となれば当人同士の合意でしかないという変遷を辿っていることになる。で、今やその恋愛結婚にしたってネットで知り合ってそれほどつきあう時間もなしに…って事例も多くなってきているから、これまたどんどん博打になってきているなぁと思う次第。だからといってそれが悪いわけでもないんだよな。いろいろ本を読むと、「子はかすがい」ってことわざがあるから昔はさぞかし離婚なんてなかったんだろうと思いきや、本を読めば読むほど江戸時代は離婚が今より多かったってことがわかるし、いくら周囲の支援がある環境だろうと、お互いを知り合う時間が少なくとも、それほど夫婦関係がうまく行くかどうかに関連性があるか?と言われゝば、全くそんなことはないという。
↘で、そういう風潮になってきているのに、なぜに今更こういう昔の習俗をありがたがるという先祖がえりが提示されるのか?にはかなり興味を惹かれるものがある。いや、だって、百合香のあり方を見て、やはり老若男女問わず胸をうたれるんじゃないかな?。そりゃ家がカネ持ちだから坊ちゃん嬢ちゃん的甘さはあるんだけど、女性のありかたとして自立しているし、結果としてどうなるかはともかく、ちゃんと運命共同体であるという認識は持ってるでしょ。正直深夜アニメではあるんだけど、今の中高生がこの作品を見てどのように感じるか知りたいと思うね。自分なんかはこの作品で描かれている感性が今ドキの若者の感性とはかなり違っているから、中高生は受け付けないんじゃないか?と一度は思ったんだけど、実際どうなのかはわかんないなぁと思い始めているもんで。

*1:であったり律子

*2:親が認めないとか言っているが、昔は若者組が聞き分けの無い親を説得したり親を無視して二人を結婚させたりしていた。