しかし、なんで都会に憧れるのかね?。

 無縁社会その2といったところ。自分が昔よく目にした王道パターンがあって、都会に憧れる若者が、故郷を出る時に親とか長老とかに「都会は危険がいっぱいだから行くな」と諭すモノ。で、案の定騙されたりして故郷にほうほうの態で帰っていくというのが物語にあったりした。昨日も述べたとおり、基本近代というのは資本家の利潤のために被雇用者が使い捨てにされる構造なのだが、どうにもわかりにくいところがある。
 おさらいしておくと、例えば江戸期の江戸は次男坊三男坊の口減らし先という側面が大きく、男女比率も男が7割ほど占めていた。女が少ないわけで、そうなると、結婚に至らなかった男というのは、都市部で朽ちていった可能性が高い。そして、明治期になると農村部は工場向けの労働者の供給元という性質を強く帯びていく。そして近代化の初期の段階では労働環境は劣悪であり、使い物にならなくなった労働者はまた農村部に帰ることになる。まぁ実際には都市が農村部の人口を吸収し労働者も都市に定着していくわけで、そうそう悪いことばかりでもないだろう。が、資本家にとって事態を眺めると、自分に都合の良い労働者を農村部からつまみ食いし、厳しい労働環境に耐える労働者がいればそれはそれでよし、耐えられない労働者がいても、農村部に突返せばよいだけのこと。農村部なんてボロ雑巾のように使い捨てした労働者の処分場ぐらいに思っていたワケだ。
 が、技術が向上してくると、労働者を使い捨てにするより、労働者を熟練工に変えて囲い込みをしたほうが、特に技術革新の著しい時期だと労働者を使い捨てにすると、技術が失われてまた一から教育しなおさなきゃならないとなるわけで、それはかえってコスト高になる。だからこそ労働環境を改善し、定着を図るワケだ。それが高度経済成長期にはじまる終身雇用制の端緒だったと思う。
 が、生産技術が企業の開発部門にお任せということになると、労働者は作業だけをすることになり、また使い捨ての存在となる。自動車産業だと単純作業の分野は昔から期間工だったし、ロボットで置き換え可能であればどんどん人間を減らしていった。その傾向は自動車産業にとどまることなく、他分野にも広がる。ホームレスの問題にしたって、あれは金の卵ともてはやされた時代の労働者が切り捨てられた結果としての現象だったし、子鼠・ケケ中のカイカクは製造分野での派遣・請負の解禁だった。そして現在は若者ですら使い捨てである。資本主義ってのは利潤のために人間が邪魔であれば容赦なく切り捨てるイデオロギーだというのは昨日も述べたとおり。
 で、面白いのは、資本主義の正体がこうであるってのは昔からわかっていたこと。なのに、国民は自民盗独裁政権をほゞ60年もの間支持し続けてきた。資本主義の本質は資本家以外の人間切り捨てであるってことはむしろ共産党が昔から言いつづけてきたことなんだけど、その共産党の主張を「アカ」とばかりにバカにしてきたのが、痔民盗に長年こき使われ、ついに切り捨てられた国民だったりするのだ。共産主義の是非はおいとくとして、自民盗は昔から庶民切り捨てだったし、共産党はむしろ庶民の味方であったにも関らず、共産党を毛嫌いし、自民盗を支持し続けた国民が多かった。
 そういう愚かな国民だからこそ、都市の誘惑に打ち勝てず、農村を切り捨てゝきたと言える。


 では、なぜ農村を捨てた人たちは、都市の華やかさに目を奪われて、故郷を省みることがなかったのか?というのが難しい問題ではある。自分が山村生活の研究 (1937年)を読んでつくづく思ったのは、確かに農村の因習や停滞した生活に不満を持っていたとしても、慣れ親しんだ土地だとよっぽどのことがない限り居場所はあるのであり、実際に生まれた土地を離れるのを嫌がる人もいたわけで、あんまり故郷を捨てる動機が見当たらないのだ。それでも農村からの人口流出は止まらなかった。
 やはり、これは近代以降の資本主義下では農村部には発展の余地がなく、要するに仕事がないというのが大きかったと思わざるを得ないのである。結局なんだかんだいって、食えるところに人は集まるわけであり、人が集まれば発展もし停滞からは縁遠くなるし、流入者の文化と混淆すれば因習も改められていく。人が集まれば華やかさが生まれるわけであり、わざわざ外に出て行かなくても良くなるワケだ。で、結局近代化によって工業という産業がより多くの人を食わせられるものであったというだけに過ぎないのではないかとも思われるのである。
 が、どうなんだろうな?、これからそういう人口移動ってのが期待できるとも思わないんだよな。もちろん国土保全という観点だけでなく、適正分散といった観点からも都市から地方への人口移動はされるべきなんだが、無理にしてもまずいだろうしな。というか、グローバルな資源の争奪合戦になるだろうという気がするのだ。そうなると都市部への過剰な人口集中はかえって効率が悪そうな気がするんだよ。世界中の人間が先進国のような便利な生活ができたほうがいゝとは思うんだが、実際それを賄うだけの資源配分も、そもそも資源自体もないだろうという気がするのだ。で、中国やインドなんかをみても、人口抑制に失敗してるわけだろ。彼らが勝手に人口を増やして、その増えた人口の面倒も見ろといわれるのであれば、つきあってらんないよな。で、日本もまだ資産があるうちは札びらで資源国の頬をはたいてなんとかやっていけたゞろうけど、もうこれからはそういう傲慢なやり方は徐々にできなくなると見て良い。
 そうなると、特に都市部で顕著に見られる、消費生活ってのは見直されなくちゃならないわけで、特にエネルギーにしても物質的にしても大都市ってのは基本消費しかしない土地でしかないから、都市は都市のあり方を再考せざるを得ないと思うんだよな。偶々都市部で生産されるものに重い価値がつけられているだけで、人間が本当に生きていくために最低限必要なモノってのは、結局資源を持つものが持っている。というか消費による自己実現だとか、まどマギの第3話に見られるような、手段の目的化とか今一度見直さなきゃなんないんだろうなという気がするのだ。自分も歳をとって保守的になっただけなのかもしれないが、クルマだって買い換えによる満足感なんてのは結局まやかしなんじゃねぇの?とか思い始めた。でもまぁそのほんのちょっとの差異に惹かれるところもありはするんだけどな。「モノより思い出」というキャッチコピーをトヨタが提示したのは何の冗談か?と思うんだが、実際思い出が大事なのであれば、クルマはたゞの移動手段でありさえすればよく、いや、極言すればクルマすら要らないわけだ。
 だから、本当ならバブルの時期にやっておかなくっちゃならなかったんだろうけど、モノが飽和し、豊かにはなったものゝ、無縁社会と嘆いて縁を切望するぐらいだったら、今一度何が自分に必要なのか、それはモノなのか、人との関係性なのかというのを見直す良いきっかけなんじゃないかと思うんだよ。いや、無縁社会がダメだから、無理矢理対処療法的に縁を作って満足するんじゃなくって、モノは要るなら要る、要らないなら要らないなりに、でも最低限もしくはそこからどのくらいの余裕を見てどういうモノがどれだけ必要なのか?、そして人と人との関係性ってのは、昔と違って情報の伝達速度も速く、多種多様な価値観ってのが生まれているから、参考にできるところはしつゝ、いやそれでも新しく作っていくしかないんだよな。
 で、これでもまだ障害があって、それはまさに個人分断化を推し進め、無縁社会を招来した特権階級であるところの資本家・政治屋の動きをどう封じるか?が大問題であり、またこれは別問題だったりする。
 うーん、昔は農村部のどのような因習が嫌われて、都市部にはどんな魅力があったんだろう?という点を書きたかったんだけど、あまり思い浮かびもしなかった。平安貴族の通い婚ならまだしも、一般民衆だと大抵女のほうがイエを異動したので、男は慣れ親しんだ生活を何の疑問もなく過ごしていけばよかったが、環境の激変に晒された女は苦労したんだろうなという点もあって、その考察もなかなか大変そうである。まぁ日本だから言えるんだろうけど、人間喰うに困らなくなったらあとは、「人生どう暇を潰すか」に極言されるんだろうなと思ったりもする。