シャイニング・ハーツ 〜幸せのパン〜 第2話

 布程度で暴風が防げるとも思えないが。
 うーん、なんとなく方向性が見えてきたというか。といっても、実は先週第1話を視聴したときにネットで検索して、この作品がゲーム原作である(まぁSEGAだし)こと、そのキャラ紹介をいろいろ見て知りえた部分もあった。主人公を取り巻く三人娘はゲームでは一人しか選んで登場させることが出来ず、その三人とも実は@伊藤かな恵らしい。前回@伊藤かな恵キャラがほかの二人と扱いが違って見えたのはそこらへんの配慮もあったということか。でも今話は@伊藤かな恵キャラ以外が主役になってたけどな。でもまぁゲームでは主人公は記憶喪失で、あといろいろファンタジー的なキャラがドンドン登場して、いかにもセガ的ごった煮の様相を呈してはいた。そこらへんアニメではどうするんだろうな。自分的には中世と近未来が同居するってのは勘弁願いたいところではあるんだが。
 舞台が中世をモチーフにしているということで、パンも時代考証がどうなっているかに興味があったんだが、あんまりそういうのを重視していないことはわかった。まぁ別にこの作品が忠実に中世のパンの描写を再現するのが目的でない以上、どうでもいゝ話ではある。で、パンは結構重要な役割を果たしているらしく、人はパンのみにて生くるにあらずの「生くる」という部分だけでなく、どうも人間関係に対する潤滑剤的な要素も含んでいるらしい。
 で、今回のお話だが、やっぱファンタジー的なところがちょこちょこ気になりながらも、結構楽しめた。藍蘭島が思い浮かぶような設定なので、似たようなところがあってもおかしくはないんだけど、島の人たちが気持ち悪いほど気の遣いすぎという風にも感じられた。が、狭い島のこと、誰かゞ我欲満開であたりに害悪を振りまいてしまったら全島で終わってしまうので、あれはあれで正しい設定だと思う。南洋の島々におっとりとした雰囲気が漂うのもそういうことだろう。ヘンな話、文明社会といわれる欧米や日本、もしくはアジアなんかでも日本の経済成長振りを見て勘違いしている昨今のアジア諸国の方々なんかを見ると、そっちのほうが浅ましいと思われる。まぁ日本も近世までは大抵の人々が土地に縛り付けられていたわけで、その土地に住んでいる住民にとっては世界は狭いもの…であって、そういうところではこういう風に互いに気を遣いあうようなところもあったし、もちろん誰かゞ我欲を剥き出しにして収拾がつかなくなり、陋習で息苦しくなっていたところもあるだろう。だが、人間が多く集積し、また流動性が高いところでは、我欲を剥き出しにした人間が居ても拡散してしまうというかヤリ得になってしまったりするので、当然にして気の遣いあいといった気風はなくなってしまう。自分が今住んでいるのが田舎だと思っているんだが、前にも述べたとおり、鍵をかけなくても泥棒にやられるといったことがない。これは都市部では考えられないことであって、そういう「狭い世界」、「広い世界」での人々のモラルというか、気風というのは大昔からそんなに変わっていないのかと思わされる。自分の職場も地元の人間が顧客の商売ではあるのだが、でも職場の人間の大半は自分も含めて余所者なのだ。そういうところで、我欲の強い管理職がやりたい放題やってしまうとどうなるか?。これが面白い事に、特に今のように地方がこゝ20年ほどのネオリベのやり方で疲弊させられてしまっていると、顧客のモラルが崩壊していくのだ。で、管理職は長くて3年、大体2年でどっかに行ってしまうので、あとは野となれ山となれという具合で、本当に廃墟と言っていゝほど職場とそれを取り巻く環境が荒れる。まぁ面白いといっても、被害は直接自分にも降りかゝるので、実は泣くに泣けない状況にはなっているのだが、まぁこれまたこういうこともあるんだねぇと思うほど、じゃぁそういうクズ管理職を重職に就けた上部構造の責任は全く問われないというか、環境自体が壊れてしまって正常な判断が下せないので、そもそもおかしいという状況であるということすら把握できていない状況だ。ホント「こうやったら組織は壊れるからやめなさい」という教科書的なテストケースが目の前で繰り広げられたということになる。しかも自浄作用が全く働かない。働かないまゝ、それが常態化していくという悲劇。悲劇なんだけど、悲劇という自覚がないという地獄。まぁ日本人のモラルが高かったという話を最近聞かなくなったが、グローバリズムというものが、我欲の強いクズがやりたい放題やれる活動範囲をさらに広げてしまうものであるという捉え方をすれば、あぁ、これはなるほどそうなるわけだよと納得してしまうものなのであり、よくよく考えればなんの不思議もない。
 となれば、この作品ってのはむしろそのグローバリズムの真逆の主張という事になる。人間の生存圏は、たがいに顔と顔をつきあわせて会話できる範囲で済ますべきということなんだろう。むかし、世界が100人の村であったならとかいう提示があったが、それもなるほどだ。やりたい放題やる連中は、権力をカサにきていれば顔の見えない連中から反撃がこないことがわかっており、荒れるという効果が出る前に逃げ切ってしまう。せめて顔が直接見える範囲で、行動の結果が現れたときにちゃんと責任が取れる範囲に留まっていれば環境が荒れることはあまりない。しっぺ返しがくるからだ。そうじゃなくて、今回の話のように貸し借りの解消を常日頃心がけていれば、場が荒れることもないし、居心地はよくなっていく。そう考えると、昭和30年代にあった昭和の大合併、50年代ごろにもあって、前に平成の大合併が行われたが、こういうのは自民盗が地域の小組織をぶっ壊し、モラルを崩壊させて社会資本をカネに換え、収奪の効率を上げて独裁体制を意図的に作り上げてきたことがよくわかる。
 あ゛〜。前回音楽が特筆すべきなんて思ったのだが、どうもこの作品もそれを売りにしているらしい。OP動画のタイトル提示のあと、とに絵のすぐ後に音楽の菊田裕樹の名前が見える。普通何十人もの名前のあと、OPのサビの部分に音楽とOP曲の提示があるので、この持ち上げは並々ならないな。お話自体もキレは感じられないが、予想していたほどヌルいというほどでもないので、油断は禁物だが期待は持てそう。