ガッチャマンクラウズ 第12話

 終わってみればそう飛びぬけていたってわけでもなかったのかな。
 ベルク・カッツェの立川転覆計画は、日本全国からのヴォランティアの自発的行動によって押さえ込まれてしまいましたの巻。結局ヒーローはテレビを見ている皆さん自身なんですよという、まぁよくある〆。元祖ガッチャマンの最終回がそうだったのかどうかわかんないので、そうすることの意味が判断できないところがちょっともどかしい。但し、よくある〆とは言っても、昔ながらのテキストは、ヒーローは大抵単独でクローズアップされ、ヒーローに一般人が持っている悩みや挫折を味わゝせて、視聴者との距離を詰めてから、各々の立場や場所でスタンドアローンなヒーローたれというものだったが、この作品では“クラウズ”というガジェットを身に付ければだれでもヒーローになることができ、単独ではなく、協同が前提になってる。しかもその協同は“クラウズ”という単語に見られるとおり、お互いの人格と人格のコミュニケーション“ではなく”、マッチングというシステムが根幹を成している。これはちょっと他の作品とは一線を画すものだと感じる。概念とかといった意味では決して新しくはないんだけど、こういうアニメ作品としてわかりやすく仕立てられたのはあんまり見ない。
 最終回というか、最終展開における、各キャラの精神的覚醒はちょっと急いでいるというか、あんまり自然な流れではなかったと感じるけど、ハッピーエンドにするのが前提ならこんなものだろうなと納得できる。
 全体的には考えさせられるという点で面白かったと言えるんだけど、一つ不満があるとすれば、それこそ爾埜美家が言ってたような、社会を混乱させる要因についての言及が結局なされなかったこと。いちおうそういうのを代表させたキャラを上げてはいたが、話が進んでいくうちに、なんか義憤に駆られてだとか、そんな感じでいゝひとになって終わってた。いや、そうじゃないから。
 こう不特定多数の善意をうまくマッチングすればよりよい方向に社会を変えていけるという結論なんだが、そのへん某巨大掲示板のなりゆきを見てみるとちょっとウソくさい。スレが荒れるのにどう対処したか?というのが、結局のところID表示制であって、実名表示でこそないが、なりすましを防ぐというのがそれなりの解答だと自分は把握している。それでも荒れることがなくなったわけではない。で、そのへんこの作品だと、ガッチャマンたちの身バレがそれにあたるし、ベルク・カッツェのなりすましが効果を表さなくなったのも、「荒らしは放置」にあたるわけで、別にその辺考えてないのはわかる。
 ところが、善悪に関わらず、強大な力を誰でも行使できるということをしてしまうと、そこには悪貨は良貨を駆逐するではないが、基本悪巧みをする人間が得をする社会になってしまう。クラウズというのは権力のメタファーであるが、例えば自民盗のあり方を見てみれば一目瞭然。与えられた力を良い方向にしか使わないと決めた人たちは、結局のところ自民盗のような権力欲に塗れて他人を傷つけて自分だけが得をするような人間を排除も抑制も出来ない。それでもなんとか社会が薄汚いまゝであっても継続しているのは、自民盗のような連中がやりたい放題やりすぎてしまうと、しっぺ返しを受けるという悪人にとっての毒をもって毒を制するといった自律的なフィードバックが働くため。そういうのをなくすことこそが爾埜美家の言ってた「世界をアップデートする」といったことだろうに、結局のところそれは初めっから無理と考えていたか、話を練りこんでいても結局考えつかなかったかといったところだろうが、まぁそのへん前者だろうとは思う。
 だからといってこの作品の主張がダメだということもなくって、従来の統治機構であるところの総理大臣を無力化しようという点にはなるほどゝ思った。おそらくこの作品が理想としている社会にはそういうシンボルは要らないといったところだろう。とはいえ、これは地域コミュニティをそれほど重視して描いているわけでもないから、差し当たって今問題を引き起こしていると思われる規模、範囲で、ミクロマクロ両方の視点で効果的な変化とはどうあるべきか?といった提案ということについては光るものがあったんじゃないかな。
 自分的にはかなり楽しませてもらったし十分面白く感じたけど、名作にはちょっと足りないといった感じかな。続編もあるので、それ次第かも。