おとめ妖怪ざくろ 第13話

 チューはしても、見せないのか。
 前半は女郎蜘蛛退治の巻、後半はその后の妖人省の巻。いやぁ、よく出来ていましたね。広げた風呂敷はほとんど畳んじゃってるし、あと腐れない終わらせ方のように思えた。いづな使いは女郎蜘蛛が殺しちゃってゝ、神懸りの里を全滅させたのは女郎蜘蛛と橙橙という処理の仕方だった。特権構造の解消はやんないんだろうなと思っていたゞけに、スッキリしたよ。花楯が救われていたが、よくよく考えてみると、そういや人間界に害を為すというのが見られなかったな。彼は愛情に飢えており、ざくろを手にし強い力を手に入れてコンプレックスを解消することにのみ専念しており、逆に人間界ではホテル事件の顛末のように役に立ってすらいる。半妖を生み出したとはいえ、それは神懸りの里のうちでおさまっており、確かに社会的に懲罰されるべき存在ではないわな。
 女郎蜘蛛退治が成り喜びはしたものゝ百緑の悲しみに妖人省の面々が自粛するとか、百緑が花楯を追いかけたが橙橙を背負っていくというのにもビックリした。普通こういう物語だと橙橙は捨て置くだろ。が、こうすることで橙橙があまりに厳しい世の中で百緑の寂しさを癒すたった一人の肉親であったことが示されるワケだ。こゝまで気を遣いますか…と驚く。ざくろ母のミイラも、前話を見返すと確かに総角は口を押さえているし、足元しか描写してなかった。多分原作でもそうなっているんだろうけど、こゝまで配慮しますか…と感心した。
 で、ざくろツンデレのツンの部分は、オオカミさんの涼子のように、弱さの裏返しであることが明かされてた。さすがにこれは口にして貰わないとこちらは気がつきもしなかったし、実際そういう描写のようでもなかったような気はする。たゞ全体的にみてみると、なんつーか、黙っていても伝わるもんは伝わるといった日本男子的な奥ゆかしさよりは、なんでも形にしたり口にしないと伝わらないといった欧米的女のような価値観で固められていたな。百緑がなぜ自分を疑わないのか?と問うた時、それは薄蛍の特殊技能で疑いようもないことなんだよという提示には実際唸らされたのだが、フツーは流れで疑う余地もないだろ…と思うもの。そんなこと口にしなくてもわかれよ…と思うのではなく、そしてこれだけ説明調の作りであってもそんなにうざったく感じなかったのは特筆しとくべきだろうと思う。
 さて、全体を通してみると、共通理解が一つの主題だったんだろうなという感じがした。結局旧い日本と欧米化していく日本との折り合いってのはそうそう主張されていたわけでもなかったのだと思う。ビスケットはともかく、牛乳はざくろがおいしいと感じる必然性はない。最後街の人と妖人が触れ合う場面があったのだが、これはとってつけたよう。元々人間が妖人のテリトリーを、妖人が人間のテリトリーを侵して不仲になったわけではない。大抵は人間の妖人に対する偏見が妖人の居場所をなくしていったという描写だったように思う。人間には人間の、妖人には妖人の都合があり、お互い許容できないところは線を引き、合意に達する部分で触れ合いましょうといった立場というよりは、とにかくいゝものはいゝんだから受け入れろというイメージが湧く。妖人のことは人間はすべて理解できるし、たぶん人間のことは妖人もすべて理解できるだろうといった楽観主義が感じられた。別にこの物語がその描写をしなくてはならないといったことではなく、不十分というつもりもないのだが、結構危険なところがある。
 先のホテルの件だと、人間が自分の欲得でホテルを建て、その結果妖人の生存権が脅かされて暴れるという騒動だった。で、とられた解決法が妖人の居場所を確保して、人間と妖人の境界を決めるというものだったように思う。人間の世界でしか通用しないことを妖人にも当てはめてみたら、それは妖人にとって迷惑千万のことであった…だから人間の中でしか通用しない事は人間のテリトリーの中で消化しそれは妖人の側に輸出しない、人間にも妖人にも両方合意が取れるものだけ共通の事柄とし境界は引きましょうといった立場だ。多様な文化の共存する社会では、答えはたった一つと考えてすべてのものはそれに従えというのは傲慢極まりない考えで、もしかするとその答えは間違っているのに、多数が支持しているからといって他のものに強制して良いものではない。で、それはちゃんと提示されているのだが、妖人が低い立場に置かれたのは、やはり人間側の多数工作による強制や偏見が原因とは思われるわな。まぁ牛乳というか食い物ぐらいはどうってことないんだが、共通理解も正しい答えがあるかのように感じられる節が見られないこともないような気がして、ちょっと気にはなった。多数工作で利権を手にする特権階級も滅びなさいという主張があったし、ほんの些細なことではあるんだけどね〜。大枠で正解だから、ちょっと気には留めときましょうやといった感じだけど。
 旧い日本の風習でいえば、結局のところ若者宿と娘宿(本作では両方が一緒になっていたワケだが)のことが大きかったかな。自分には気付かなかったこともあるかもしれん。たゞ、これは考えてみると結構大きい。昔だと農村や漁村では15歳ぐらいになると「親元を離れて」暮らす風習があったらしい。それが似たような歳の共同生活に近いものであったり、他人の家に寄宿する形であったようだ。都市部ではそういう若者宿や娘宿があったという事例を見ないのだが、かといってやはりある程度の歳になると丁稚奉公に出たわけで、そこで住み込みで働くとなると「親元を離れて」暮らすということになる。そして大体25になるまでにほとんどのものは所帯を持って独立…いわゆる大人になったワケだ。たしかにこういう形態は現代にはほとんど見られない。というか、高校を卒業して大学進学して一人暮らしをするとか、就職して独身寮に入るとかがそれに当たるんだろう。そういう意味では大人になるのが昔より遅くなったということだけなのかもしれない。とはいっても、現代のそれは自治の意識はほとんど無く、進学しても孤立する傾向が大きいし、就職でも会社はほとんど新人の面倒をみなくなっているわけで、モンペ問題なんかも考慮すると、現代というのは高校までは幼稚であることを許容され、それ以降は「急に大人になる」ことを強いられているような気がする。で、大人になる基準は特権階級が決めることらしい。いみじくも三浦朱門が言ったとおり、エリートは優遇、できんものは実直な精神だけを養えというわけだ。これではまともな大人になるハズが無い。
 が、この作品では若者の自主性を先達が見守るという形になっている。最終決戦でも軍人三人は即戦力とは言い難い働きぶり*1だった。妖人省の依頼にしても、上司がやりかたを手取り足取り教えて、やれ言った通りにしないと叱責するわけでもなく、成果が出ないから反省しろという態度でもなく、基本は若者にお任せだ。で、神懸りの里の案件でも、上司が命令でなんとかしろと強制するわけでなく、若者のほうから取り組むという形に自然になっている。これは現代の経営コンサルタントに言わせれば「なってない」とお叱りの一つでは済まないと思うのだが、実はよくよく考えると、妖人省のありかたはこれ組織として理想の形なんだよね。雨竜寿とか櫛松とか、ほとんど完全無欠といっていゝほどの上司。まぁ現代技術の水準の高さを考えたら今これを実現するのは難しいと考える人も多かろうが、昔の日本ってのは、こういうやりかたでうまくいってたことがかなりの割合であったんだろう。もちろん上の世代が要らぬ口出しをしたり、やたら抑圧的であったりするという、ブラック企業的な事例もあったんだと思うが、今よりはよほど若者の自主性に任せていた部分が大きかったんだと思う。そりゃ裁量を与えられて自分で考えて仕事をしてりゃ成長も速いわなと。
 というわけで、これはなるほどよく出来た作品だわと思った。こういう女の子向け作品だと、結構違う世界見たさに恐る恐る見てしまうといったことが多いのだ。で、女の世界特有のやたら同調圧力の高い様子に、ちょっとばかしヒくといったことも多いのだが、これには引き込まれてしまった。音楽もすばらしかったし、画も秀逸。よく他の感想サイトさんだとバトルシーンの優劣を云々するところもあるんだが、この作品だとバトルシーンに重要度はなく、かといってバトルシーンに手を抜くということはなかったような気がする。こゝぞというときに、決め絵がくるのは女の子向きなのか、萌え絵にときめく男の子向きなのか迷うな。おもろ+なのは間違いないのだが、文句無しに一般人向けにお勧めなのかどうかで、名作評価にするか迷っている。出来合いの物語フォーマットに、アイドルを起用してゴールデンタイムで視聴率を稼ごうとする、数字目当ての実写ドラマよりははるかに秀逸な作品だとは思っている。スタッフの皆様方には大いなる感謝を。

*1:これが小学生向けのアニメだと、主人公は幼いのにやたら強い力で物事を解決しちゃうわけなんだが。しかもその原動力ってのが「思い込み」に近いものであり、話によっては力にモノをいわせて強引に解決したりするエピソードが作られていたりする