で、たぶんありうべき学力観とか出てくると思うんで。

 じゃぁ社会に出る時に必要な学力って何よ?というのが出てくると思う。今の教育カリキュラムは時代にあってないとかそんなの。もっと実学指向にせよとか言ってるのがわんさかいるだろ。
 が、なんというか、今まで言い続けてきていると思うんだけど、近代から現代にかけて、高度分業化社会になってきており、本当に実学指向にしてしまうと、もう義務教育も読み書きそろばんが出来てしまえば、(小学3〜4年だ)あとは進路別に教育せねばならないとなってくる。でもそうなるとあとからの変更もできず、他人が何をやっているのか全く理解できない人たちをたくさん生み出すことになる。まぁ高等教育、つまり大学は専門化という側面のほうが強いんでアレだが、中等教育まではある程度社会を成り立たせている要素ってのを共通に叩き込む必要はあると思う。そうなると、やはり抽象度は高くならざるを得ない。そして、実際に社会に出るなり、高等教育に向かうなりにせよ、中等教育までに培われた抽象度の高い知識を、それぞれの進路にあわせて応用していかざるを得ないと思う。その観点でいうと、実は今の小中高のカリキュラム…といってもゆとり教育以前のものだが…はそうそう悪くない構成だと思うのだ。
 繰り返しになって申し訳ないが、教育の初期段階から、豆腐屋になる人間は豆腐屋になるためだけの知識、スポーツ選手になる人間はそれになるためだけの知識・訓練だけしちゃったら、豆腐屋の人間はスポーツ選手の、スポーツ選手は豆腐屋のことを全く理解できなくなってしまう。国民全員が自分だけの世界に閉じこもるという国民総蛸壺化を避けるためにも、共有される知識というのは重要になる。でも共有されるものだからこそ抽象度が高くなるってのはわかっていただけると思う。そして世の中が複雑になればなるほど、学ぶべき事は多くなるし、その多くなった知識をつなぎ合わせる橋梁にあたる知識…これまた抽象度が高くなるモノなんだが…も多くなる。だから、本来ゆとり教育なんていって学習量を減らすことなんてしてたらダメであって、むしろ知識量も増やさなくてはならないし、各個人の到達度も高くなければならない。いや、そうやって国民を全員高学力にしたところで、単純労働は誰がやんの*1?って、社会構成、国民の配置の問題になってくるんで、これまた難しい問題にはなるんだけど、話が逸れすぎるのでそれは置いといて。…が、結局日本は逆の方向に進んでしまった。学習量を減らしただけでなく、容易化した内容にもついていけない生徒が増えてしまった。
 まぁ結論としては、政財界がいうようにもっと学校教育を実学化しろって言説は、そういう社会構成にするんだったらそれはそれで矛盾は無いようにはできるんだが、それって格差拡大と格差の固定に必ずつながるよ…ってのは警告しておきたい。そうじゃなくって、社会を共同体として再構成するためには、むしろ今までの学校教育の方向性はそれほど間違っておらず、内容を充実させるべきなんじゃないかと思うんだがね…ということ。
 で、これは全く余計なことなんだけど、ネットのあり方もいろいろ考えるべきなんじゃないかな。別にもっと規制してクソ真面目になれってわけでもないんだけど、今の欲望解放系のあり方だと未成年にあまりいゝ影響をあたえていない*2よね、実際。

*1:嫌な仕事は誰かに押し付けるんじゃなくて、自分ででやれよ…つまり全員がやるって解決法はあるにはあるが。

*2:いや、メリットも十分与えているけど