乙姫に精気を抜かれて紳士タイム。
今回は結構盛りだくさんだったな。管理された自由に優秀な敵の登場と紹介、こちら側の層の厚さを示したり馴れあわせたり。そいでもってお色気だのも入っているのだからサーヴィス満点といったところか。いつもだったらナレーションはウザかったり、単なる合いの手だったりするのだが、今回は台詞もナレーションもどちらも重要で、交錯しているのがもどかしいぐらいだった。
御伽学園が優秀な生徒の生産所として好循環ってのはわかるんだが、鬼ヶ島高校が御伽学園の脅威ってのは良くわかんない*1な。御伽学園の引き立て役なんじゃないのか?。しかも御伽学園が好循環なら、鬼ヶ島高校は悪循環なわけで、これは現在の日本の高校システムのあり方に最も近い。これは単に教育問題だけでなく、格差問題、しかも格差固定に直結する。簡潔にいうと、弱者を意図的に作り出して搾取構造を成立させるというものだ。弱者を救済してしまったら搾取にならないため、社会から排除される。
日本の近代史を振り返ると、江戸時代は人口の八割以上が農民で、上層5%の武士、つまり支配階級が君臨するという構造だった。これも考えてみれば搾取構造とも言えるのであるが、生産者である農民が人口の大部分を占めているため、社会の主構成要素たる生産者の内側では格差はあまりなかったと見てよい。が、明治維新以降生産手段を特権階級が独占するようになると格差が拡大する。が平行して発展した教育システムによる国民の知識力が高まると、中間層が形成され、経済発展によって中間層が厚くなると、この中での格差はむしろ平準化された。一億総中流と言われた高度経済成長期以降は格差が減少した時代といってよい。そしてその根本にあったのは国民の教育水準の高さである。
が、ゆとり教育に舵を切り始めた'90年代以降から様相が変わってきた。まさに今回言及された学校システムによる国民の選別が行われ、弱者からの搾取、そして搾取後の弱者の切り捨てが今この瞬間に起こっていると見てよい。国民は今まで生産者であったが、消費者でもあった。教育力を高めれば生産者としてい続けることが出来るが、そうでなければ生産手段を持たない無産消費者になり下がる。今までは国民からの搾取によって特権階級が肥え太ってきた段階であり、今、この瞬間では、無産消費者から搾取をし終わっていよいよ切り捨てに入っている。もちろん生産手段を持っている国民もうかうかしていられなくって、その生産手段が無効化され、徐々に無産消費者になりつゝある段階だ。そしてその生き残りをかけて受験戦争というか学力戦争がまさに起こっているとみてよい。昔は学のない親でも自分の子供には必死で学力をつけさせたが、今ではそういう傾向がかなり薄れている。そしてその結果、学のない親は子供に教育を施さないが故に二度と中流にすら這い上がれないという時代になりつゝある。そして意識の高い親はそういう社会構造を見抜いて好循環な「いゝ学校」に入れることになる。国民に学を施すのが社会もしくは国の役割であったのは過去のことで、学を得るのは国民の選択になってしまっている。というか、逆に学力を求める層と求めない層を今の進学校と底辺校の組み合わせのシステムが選別しているという結果になっている。
けっきょく政財界だけが意図的にそういう枠組みを作ることが出来るワケだ。それ以外のものはいくら努力したってその枠組みを壊すことも代替手段を作ることも出来ない。本当だったら国内にわざわざ格差を作らなくとも国民にそれなりの教育を施して落伍者を作らずに社会を構成することも可能だ。が、そういう社会にしてしまうと政財界が搾取をすることが出来なくなって*2しまう。だから敢えて学力による競争社会にしてしまっているわけだ。勉強が嫌なヤツはしなくてよい。そのために教師を叩くこともやってあげますよ。でも学力が低かったら能無しだから気持ちよく搾取されてね*3ってことだ。
そういうことをわかっているのが桐野であって、彼こそが自立した共同体を守り育てる「戦う長老」というポジションにある。特権階級に真っ向から歯向かう事は出来なくても、せめて交渉で得られるものは得、大切なものを守ろうとする。彼がまさに守ろうとしている共同体の成員に包み隠さずこの世の構造を説き、庇護するだけなく戦える仲間として育て経験を積ませようとする姿は、これ以上は無いというほどの理想のリーダーである。決して御伽銀行のメムバーは彼のいうことを聞くだけの手足にすぎないわけではないんだよね。ちゃんと個人個人が大切なものを守り育てることができ、自分で考えることの出来る力を持った大人として育つよう配慮してるんだよね…。箱庭の中でしかなくとも自主性を離さないってのは、よくよく考えてみると深いよね。