「分かち合い」の経済学なんだが、

 昨日はたまゆらの日だったんですっ飛ばしていたが、これからのあるべき社会についていろいろ考えさせられた本なのでちょっと触れてみたい。でもあれだよ、あるべき社会と銘打っても、そうなるとは限らないというか、むしろ大幅な修正がかけられて別のものになっちゃうのが世の常だよな。
 実は結構これでいゝのか?と疑問に思うことがあって、その最たるものがスウェーデンを理想としていること。スウェーデンなんて10年以上も前からモデルとして壊れてしまっていると思っていたのだ。民営化の悪い影響が顕在化したし、高い税金の割には提供される公共サーヴィスは低下したらしいし、移民に頼ったおかげで問題も頻発してきたというのが自分のイメージだ。ストックホルムのホームページなんかを読むと、決して高税率高福祉のイメージでスウェーデンを見てはいけないと思うんだが、あれから自分の知らないところで劇的な改善が行われたのだろうか?。
 今の先進国というか世界中で行われている搾取構造が「強盗文化」というのには大いに同意だ。そのへん今の先進国の政治がクソであるという前提条件はきちんと踏まえているというか、基本自分の認識と同じだ。
 筆者の述べている方向性に自分は問題を感じざるを得なくて、

 繰り返し指摘するように、産業構造が転換し、知識産業やサービス産業が機軸産業となると、性別にかかわりなく、すべての社会の構成員が労働市場に参加することになる。参加を保障するためには、サービス給付を充実させるなど条件を整備しなければならない。
(p172)

 とある部分がそうだ。まづ、考え直さなければならないところが、工業社会からの転換というところまではよいとしても、その行き着く先が知識社会ってのがよくわからない。いや、もちろん社会は複雑化していく一方だから、当然社会の構成員はもれなく知識を高めていくことは必要なんだが、筆者の必要と考える「知識」ってのが何をどのくらいってところでってのがわかりにくいのだ。能力を高めれば雇用されないはずはないと言っていて、それは単純に考えればそうなんだが、じゃぁ今世界中に居る70億の人間全部が賢くなったところで全員雇用される状況ってのが考えにくい。今世界を壊しているのは人間の欲であり、それを知識もしくは理性でなんとかできないからこその惨状(というほどでもないのだろうが)だと思うからだ。むしろ知識を強欲実現の手段にしてしまってるからな。あと性別に関係なくすべての人間が労働市場に参加というのもヘンだ。それは経団連あたりの強欲資本家が男女雇用機会均等法で実現にこぎつけたことだろ。著者が重要視している社会資本をぶっ壊してすべての国民を労働市場に参加させて特権階級の懐を肥やすために使役する構造そのものじゃん。なんか学者様に良く見られる、分析は正しいけど処方箋が見当違いな例だという気はする。
 自分が常々考えていることなんだが、結局のところ社会が壊れているのは、お互いがいがみ合わされているためってのが念頭にあって、特権階級の行ってきた「個人分断化」の悪い側面を急展開させるべきだと思っている。具体的に言えば地域コミュニティの正常化、飯を食うための組織で言えば、職域コミュニティの正常化、あと一番大切なのがなんといっても家族の正常化だという気がするのだ。まぁ何を持って正常とするのかという部分は自分自身詰め切れていないのだが、特権階級が国民の懐に手を突っ込んで私服を肥やすために国民同士を疑心暗鬼の渦に叩き込み、繋がりを断ってきたのを復活させるべきだと思うんだよな。つらつら考えてみると、先の大戦でいうところの戦前あたりは軍や特高などのキチガイが怖くてという部分はあったろうが、それから戦後間もないあたりまでは、今ほど国民の知識が深かったわけでもないはずなのに、勢いとして方向が正しかったように思うんだよ。むしろ現在のほうが処世術を含めての個人の選択としては結構賢くて、必要な知識はあるはずなのに、全体としてレヴェルは著しく低い。知識も正しく使えばいゝ方向に進むと思うんだが、逆向き、すなわち足を引っ張るように使うと途端に効率がなくなってしまう。昔のほうが一つ一つの知識の大きさは小さくとも、方向が揃っていたから社会を良い方向に導いてこれたように思う。要するに知識社会って、知識の量じゃなくって使い方の問題に過ぎないんだよ。それが筆者が思い違いをしているというか、説明不足なだけなのかもしれないが。
 具体的に言うと、いや昔から述べてきたと思うんだが、たとえば保育にしても老人介護にしても、昔は家庭でやってたと思うんだよ。それを外部経済化するから国民全員が労働市場に狩りだされるわけで。それで儲けたカネをまた自分トコの保育だの老人介護に使うわけだろ。で、外部経済化された分、中間搾取を受けるわけだ。時間も損するしな。まぁ昔は女性の負担が著しく大きかったわけなんだが、現在だと自分の周囲でも親の介護のために転勤先を考慮してもらう男性従業員も居て、そのへんでいうところの格差は縮小しているように思われる。保育にしたって、他人の子供の面倒を見るよりは自分の子供の面倒を見ればよいだけの話で、老人介護にしても他人の親より自分の親の面倒を見るほうが、いや、面倒を見られる側が特に願うことだろ。身内だからこその我儘って側面はあるにせよ。
 で、そのための知識だったらわかるんだよ。そうじゃなくて、外に出てカネ儲けするためだけの知識ってそんなに必要なのか?。いや、要らないとはいわないけどさ。カネ儲けとなると効率って話になるぜ。いや、効率も必要だけどさ。で、外部経済化していた部分を内部経済化すればよいって話なんだが、じゃぁそのために何が必要か?というと、それは時間なんだと思う。
 もう食うためにあくせく働かなくてもよいだけの技術があるとでもいうのなら、すべての国民を労働力化してもその労働力の使い道がないんだよ。せいぜい労働市場で供給過多となって資本家のいゝように安くこき使われるだけの話だ。そうじゃなくって、男だろうと女だろうと働く時間を短くしてあとは家庭に返せって話なんだと思う。育児書読んで、わからなければ親に聞くなり地域コミュニティに頼ったりすればいゝし、介護に関してもそう。それは時間が無いと出来ないことだろ。で、それは実は昔は誰もがやってたこと。しかも給料が安くとも、給料に対する物価が高かったとしても、それこそ昔はうまくやってたゞろ。
 というわけで、反動というわけではないんだけど、その辺のコミュニティや家族の形成については昔に範を求め、いまの発達した技術とのバランスを取ればいゝだけの話だと思うんだがね。生きるためにたしかにこれだけ貨幣経済化してればカネも大事なんだが、もっと時間と頭の使い方ってのがあるように思うが。
 しかしながら、面白い考え方も得られた。

 「同一労働、同一賃金」の原則からすれば、同一労働に従事している限り、正規従業員であろうと非正規従業員であろうと同一の賃金を支払わなければならない。それだけではない。黒字会社に勤務していようと、赤字会社に勤務していようと、同一労働である限り、同一賃金が支払われることが原則となる。
(p162)

 目からうろことはこのことかと思った。で、結局のところ同一労働をしていても一方の会社は黒字で、もう一方が赤字ってのは、要するに経営者の能力に優劣があるからなんじゃないの?という。それって経営者が経営に関して同一労働をしてないってことだよね?。