まぁ今さら学力低下論争かよというのはあるのだが。

 大学でアルファベットを教えて何が悪い - bluelines
 うーん、なんというか、補給補充もない味方劣勢の最前線で苦闘している様は拝見できるので、気持ちは十分にわかるんだが、なんと言いますかねぇ。じゃぁ今大学でアルファベットという中学入学時のレヴェルの手ほどきをすべきだと考えているとして、将来も大学でアルファベットのおさらいからすべきだと考えているんだろうか?。レヴェルの低い学生に合わせてしまうと、その後もっとレヴェルの低い学生しか来なくなる可能性のほうが圧倒的に高いので、実はこういう状況を是認せよという意見が通ってしまえば大局的には問題をさらに悪化させる。戦後教育で言えば、中学までは義務教育だから仕方がないとしても、中等教育後期からはそうではない。過去「15の春を泣かすな」とばかりに高校全入をした結果、どうなったか?はいうまでもないだろう。名前さえ書けば合格するような高校が多くなったという状況が、今大学にまで及びつゝあるというだけのことだ。
 冷静に考えてみても、学力の低い学生が入学してくるのはこの先生のせいではない。そしてこの先生も本当に大学の本義としてアルファベットの書き方から教えるべきと考えているわけでもないだろう。当然大学レヴェルの講義をするという希望があるはずだ。そして、やはり原因は経営のためと称しながら、大学に入るに価しない学生を入学させた経営層であり、また、大学全入時代到来とばかりに安易に大学を乱立させた立法・行政にある。
 自分が大学に入る頃は、まだ日本の科学技術が最先端であるという幻想に浮かれていた時代だった。で、大学を卒業して、一芸入試だとか興味関心重視の教育だとかが実施され、援助交際だの携帯端末の普及だの、本来学業に専念すべき生徒たちがそれ以外の価値観を学校に持ち込み、それを後押しする世論が生じてくるにつれ、おかしいと感じるようにはなった。新しく設置される大学は学部学科名からして流行に媚びたものになっており、いったい何を学ぶところなのかを疑問に感じさせるようなものも多かった。
 で、こりゃダメだと痛切に感じたのは、そういう新設大学が、官僚の天下り先や、大企業の社員の出向先として教授職や助教授職を乱発しだしてからだ。良く刊行される新書の著者紹介などを見ると、そういう泡沫大学の教授助教授の職を得ていることが多かった。そして前職は官僚なのだ。さらに救えないのは、落選した自民党議員に食い扶持を与える機能まで果たしていたことだ。
 だから、やはり新設大学ってのは必要があって設置されたのではなくて、利権のためにつくられたものだとずっと理解している。大学が教育機関であるべきか研究機関であるべきか以前の問題で、というか、こういう大学は前提からして学生を教育しようとする概念がそもそも抜けている。そして、今、入学しようとする学生を取り巻く経済環境が悪化し、淘汰されつゝ状況なのだろう。この人は誠実だと思うんだが、多分天下り官僚とか大企業の出向社員の教職員が逃げ切った後の補充でこの大学に就職し、状況の酷さにビックリしているんだと思う。せっかくありついた仕事だから必死だろう。
 しかし、こういう大学でも存在させるというのであれば、やはり高校までの学力をつけた学生が入学するようになるという先の展望があってのことだと思う。しんどいのは、この先生がこの大学でいかに低学力の生徒のレヴェルを上げるために努力し成果をあげたとしても、それは大局で見て状況を改善する手助けにはまったくならないことだ。しかも先ほど述べたとおり、状況を悪化させる可能性が高い。大学本来の姿に戻るまでの暫定的な処置として、低学力生徒の支援をして持ちこたえることには大いに価値のあることだが、そうでないなら低学力学生のお守りをすることが大学本来のあり方にすりかえられてしまう。そして努力すればするほど、大学はお守りをすべきだというふうに固定されてしまう。
 問題解決は実は簡単だ。大学の名に価しないのは潰せばよいだけの話だ。これは早ければ早いほど効果が高い。自分が大学生の頃ですら産学協同とか言われていたが、振り返ってみるとそういう風潮になってドンドン大学のレヴェルは落ちている。B2から就職活動を必死にしてたらそりゃ学業が疎かにもなるだろう。そして就職支援に大学本体ですら授業時間を減らしてまで熱心にやっていると聞く。アホかと。初等中等高等教育すべてにいえることではあるが、やはりどシロートが関わるとロクなことにならない。
 大学が企業への就職予備校、就職準備校になっているというのもよくよく考えればおかしい。それは企業が独自に教育すればいゝだけの話だ。メンズ・ウェアハウスは「スーツ大学」というのを設置しているらしいが、そういうので事足りること。日本の大学はもっと社会の変化に対応して変わるべきとか言っているが、欧米の大学がそんなに産業に媚びて変わっているとも思えない。いわゆる世界的ランキングの高い外国の大学では、従来まで大学で教えていたことが教科書にされ、学生の自学自習でそれを短期間にマスターすることが常態化し、大学ではその先の教育をやっているだけだろ。それが日本では退行。今考えてみれば、大学を新設すべきといっていた時期には、むしろ大学は減らすべきであり、短大を増やすべき*1であった。そのほうが大学のレヴェルも下がらずに、かつ社会に要請される人材は効率的に供給される構造になっていたのだ。自民盗・文部省の罪はとてつもなく深い。

*1:現実に起こったのは短大の四大化であった