ステマ#1~3

 いわゆる追放系のなろうラノベが原作。この手のものは真の仲間を視聴して以来なのだけども、どうも一大ジャンルに成長してるっぽい。こういうのが流行るあたり、おそらく政府の統計以上に失業者が多いんだろうなという感じ。アベが復帰して失業率が改善されたとか言ってるし、自分の友人もそう言ってて気が滅入るのだけども、アベノミクスとか、この前もちょっと話題になってたが、就職氷河期の問題を放置して新卒を優遇してるので、結局上の世代から奪って下の世代に横流ししてるだけで、まぁ日本の場合レールから外れると復帰が難しい社会だと言われてるし、職安で求職活動をしてないと失業者にカウントされないという政府の発表する失業率は控えめに言ってもインチキ。まぁ上の世代から奪った職も、某慶応大卒の「社員は全員45歳でポイ捨てだ」の桜を見る会参加者に対する酒の饗応あたりなんかを見ると、その下の世代もふんぞり返ってるとそれもまた奪われるんだろうけどな…。
 というわけで、主人公の類稀なるマネジメント能力と、上記世情のきびしさでの「金のないやつぁ 俺んとこへこい俺もないけど 心配すんな、」の二つの要素を組み合わせたような話。あと、都市と地方の分断(都市が地方を搾取し切り捨ててるだけなのだけども)の視点もあってオモロかった。現代資本主義の一要素に高度分業社会があるんだけど、主人公と対立する勇者側は都市側、主人公側は田舎モノという対立構造にしてて、都市側は自分の利益のために特権を独占(分業の一形態)し、負担を地方側に押し付けてるとか、顕著なのは主人公はなんでもやれてアタリマエ(分業とは対立する概念)の感覚。まぁ地方がそんなにいい社会だというワケでもないんだけど、勇者側はパフォーマンス重視でカネになることだけやってるけど、主人公側は見知らぬ商人すら助けてるのだから、これは互助意識という地方、というより田舎の感覚。
 ヘンな話、猫耳少女とかツンデレ龍少女とか出していかにも萌え要素ふんだんだという感じにしてるんだけど、これ世界観とか物語の構造を眺めてみると、現代社会へのアイロニーに溢れてて、見かけに反して硬派なイメージは受けた。勇者側のありかたがあの世界(要するに現代日本)を荒れさせた原因で、彼らの行動が野放しにされた結果あのような盗賊が跋扈する世界になってるという流れも見えるし、主人公が割と度を越えた善人であるのも、この作品に関してはそうする理由が見えるのであんまりお花畑という感覚は少ない。

後宮の烏#1

 人気小説のアニメ化。主人公の不幸な身の上はわかったが、彼女をどうしたいのかちょっと見えにくいお話。
 この手の話は酒見賢一後宮小説以来でジャンルとしては昔からあったものなのだけども、なんか中国ドラマの隆盛もあって最近人気が出てきてる模様。オカルト混じりとはいえトラブルシュートとかミステリとしてもそんなに出来の悪い感覚は今のところ感じないし、これを支持してたファンにとっては待望のアニメ化だとは思うんで特に問題もなく視聴継続していくと思う。ただ、このジャンルに関しては門外漢なので見当違いの感想になる可能性は大。

スパファ#15

 大臣暗殺を未遂にして日常への回帰。うーん、やっぱりスパイアクション部分より日常の方が落ち着く。後で飼うことになる犬の処遇について主人公と上司がヒソヒソ交わしてる間も、やっぱりこの娘、勝手ツンボかましてた。
 家族ドラマとしても少々物足りない感じがあって、ただ、子供というのは親の儘にならないものなのであってその辺のドタバタはそれなりのバランス感覚で描かれてるとは思うんだけど、それがこの作品の大ヒット理由なのかどうかはわからんが、どうも若者層は娘に感情移入してるみたいなんだよね…。自分の感覚だったら、仮に若者だったとしてやはり主人公だとかその嫁の立場に立って子育ての楽しさ難しさに対して思いを馳せるもんだと思うけど、子供自身に…というのはやっぱ精神が子供のママ身体だけが大きくなったというか、子供の自我感覚で楽しんでるのだと思うとちょっと空恐ろしいものがある。アニメだけでは判断できないとは思うが、原作者も子供は擾乱要因として描いてるとしか思えないので…。


水星の魔女#3

 やり直し決闘の開催と結果出るの巻。前回も言った通り、今のところみんなお貴族様の御戯れなのでどうなんだろうなという感じ。決闘自体が親の経済力に左右されるとか、現実も出世は親の七光りってこともあるけど、そういう範疇にとどまらなくって昨今言われてる文化資本の差とかも含んでるよなー。主人公の赤髪も結局お貴族様だったし、決闘の前口上にある機体の性能だけでも搭乗者の技術だけでもないってのはまぁよく言ったもので、結局ガンダムをうまく扱えるのも子供の頃からの教育あってのことだろうという。バスケのドリブルとかサッカーのリフティングも幼少時から慣れ親しんで、それでも生まれつきの能力差があるからモノになるかどうかは人によるんだけど、ボールはトモダチぐらいのレベルになれるのは、やはり中高生のように身体能力がある程度の見通しが立った時点でトレーニングを積み重ねたところで感覚レベルで身につけた連中には決して敵わないという。だからこそカネ持ちは子供にたくさんの習い事をさせて可能性を探らせてるのであって、貧乏人にはそういう選択肢自体が取れないという。フォークソング隆盛の頃なんかも、素人っぽい曲調でつい一般人が取り組んでみたらできましたって体裁をとってたけど、ミュージシャンの大半は幼少時からピアノを習ってたりとやはり音楽の才能を開くために幼少時に親に取り組ませてもらってたという。
 ラストの求婚も最初はハテ?と思ったんだが、決闘のあの相手もイエのためと家族ですら彼をイエの道具扱いなのに、主人公に初めて自分の能力を素で評価してくれた…自分をバックの家の大きさからも超越して個人として評価してくれたんだから、まぁそれでようやく自分自身を見てくれたということなんだろう。自我の認知とかでも典型的なパターンではあり、自己決定権含む個人としての尊重という観点からすると近代の再評価とは思うんだが、でも日々の糧にも事欠く貧乏人にとってはそれすらどうでもよいことというか、そういう文化的最低限の生活を国民全員に行きわたらせてから言ってくれよなーという、結局やはりお貴族様のくだらない価値観みたいな。