友崎#3~#6

 まぁとりあえず、No.2の生徒会選編に突入してるのだが、困った。とにかくツッコみどころの多い作品のように感じられて、一気見という形になってしまったことを後悔。イシューが出てきたときに消化しとかないと収拾つかん。しかもそのツッコみどころというのも、作者はわかっててやってるので、ある意味これは読者に考えさせるネタ…というか、作品を読んだ者同士ではコミュニケーションツールとして作ってあるのかなという感じ。ただ、アニメ化による演出の影響で、原作以上の効果を発揮してるかもしれずでなんとも。個人的には主人公がヒロインに与えられる細切れミッションの達成に、それはそれは都合がよすぎるシチュエーションが次々と現れてくるのに苦笑なんだけど、この作品はむしろ読者に考えさせる…という要素が強いと思われるので、「仮にこんな話があるとしたらどう思う?」の、“仮に”の部分なので、そこにキレても仕方がない。なんつーか、視聴を終えてかなりもやもやしてたんだが、書く前から長文になる予感。
 まず、大きな構造として、この話が資本主義のある程度行き着いたところにあるということ。前近代の、食うに困っていた時代の食料の生産性向上を達成し、工業化を果たして先進国の仲間入りを果たした日本が、では豊かになったから、その財を公平に分配してそれなりの格差はあるにしろ、充実した…定義は難しいのだが…社会を達成できたのか?といわれたらそんなことはなかったという。結局富は過度に偏在し、そこそこ働くだけで生きていくには必要な財が生産できるのだからといっても、全然余裕のある社会になっておらず、豊かなものは働かずとも弱者からの収奪で豊かだし、貧しいものは昔より労働効率を高めても得られるものは少ない。
 ある程度、工業生産でモノが作れるようになると、作れば売れるという時代は終わり、余剰労働力は三次産業に移転していくわけだが、その仕事の大半は別になくても人間生きていけるようなものなので、結局その必要性を消費者に納得して支払いを促すようなものになる。で、それは今や三次産業だけでなく、工業生産品ですらそうなっているわけであり、宣伝を通じて必要性を訴え、つまりこの作品でも言われてた通り、消費者を騙してモノを買わせないと利益にならないという構造になってしまっている。ヒロインは努力して人気者になったといってるわけだが、今や商品ですら人気者にならないと買ってもらえず、買ってもらえなければ工業の近代化で生み出された富の配分にあずかれないというわけだ。それが三次産業の進行でさらに過激になり、またその傾向が個人にも及んでいるということ。
 ヒロインの提唱する人気者になるための秘訣というのは、もう最初提示されていた時から、一昔前に流行った藤沢数希の恋愛工学だなとピンとくるものがあった。まぁその恋愛工学とやら、あのはあちゅうですら全力で殴るレベルのものなのだが、結局のところアレは対象をすべてモノ化し、効率の最大化を図るというもの。そりゃ一つ一つのことを取り上げたら間違ってはないんだけどさぁ…、でもそれはすべてを相対化するものだからオマエ自身もモノ化するんだがそれでいいのか?という。自分が勝ち組になるためのノウハウだし、そのためには勝ち続けなきゃならないし、転落したらその反動が一気に来るかもしれないし、転落しないのだとしてもそれは他人を著しく食い物にしてるってことなのだけども、そのへんどうお考えか?みたいな。ヒロインが地味子であったときに一大決心をして生まれ変わったということだが、自分を否定していた構造を受け入れたということになり、それはその構造を脱却したというよりは闇落ちしただけなんだが、それを自覚してるのかどうかとか。主人公を見るに見かねて手を差し伸べたという形に見えるが、それは昔の自分を見るようであり、彼を救うことによって自分が正しいことを再確認したいという話なのではとも思うし、結局のところ地獄の構造に他人を巻き込むということでしかないがそれについてもどうお考えで?という。ただ、現実がそうなっている以上、世の中を生きていくためには乗り切らなくてはならないことでもあって、だからヒロインの生き方がダメだというわけでもないし、善後策としてはそりゃそういう生き方をせざるを得んでしょとも思うが、でもその構造に巻き込まれているだけだから、そういう手段を取ってる限りその構造を強化するだけの話で、もしそういう構造が本当は嫌だと思っているのだったら、事態を悪化させる手伝いをしてるのだがそのへんの自覚はありますかね?という。
 前半で主人公が努力をしない人間が努力をしてる人間をバカにするなとキレるカタルシスがあったのだけども、このときもゲームをバカにされて内心憤懣やるかたないはずのヒロイン、見事にダンマリだったしありゃりゃりゃりゃといったところ。主人公の主張する、なにか利得があってそれ目的にゲームという対象が好きなわけではないというのはそりゃそのとおりなのだが、ではそのゲームはどういう構造が作り出した産物ですか?というのを考えると手放しで喜べる話でもない。それが上記述べたところの三次産業の行き着いた果てに生まれた仇花だから。もちろんゲーム産業は割と人気職でもあるのだが、そうではなく、もし社会構造がこう一人一人に有意義な地位や役割が与えられてそれが実感を持って社会の一員であるという自覚のもてる職業についていたら、本当にゲームを作りたいと思っていただろうかという可能性があって(ビデオゲームは、そもそもが電子計算機の機能を遊びに転用できないかという流れで生み出された代物なので)、ゲームそのものに社会を維持させるような高尚な意義はないし、だからといって否定されるべきでもないんだけど、でも結局は趣味の範疇であって、そうぐいぐい押し出していくべきものでもない。ゲーム制作費は半分以上が宣伝費用といわれていて、それは主人公が嫌だと言っていた他人にそれが必要だと騙して買わせる性質のもの。ゲームの出来不出来とか製作者の心意気だとかそういうのを超越した産業構造の問題としてはそんな感じ。
 二番に意味がないというポニテちゃんを助ける主人公もなんだかなぁで、お前ヒロインにはゲームでは圧倒してるのに、そこで彼女の一番を奪う行為をするのかwといったところ。まぁべつにヒロインのどうせ私が勝つという高慢ちきな鼻っ柱を折るのはそれはそれで正当な行為だとは思うが、そうじゃなくてそういう構造を否定するのが主人公の役割なのでは?とか。ただ、これは関係者全員生徒会入りとかという顛末もアリそうなのでなんとも。
 主人公がなんのかんのいって視聴者の目から見て成長してるように見えるのも、もともと主人公が磨けば光る原石だったという仕込みもしてあるし、その原石もやっぱり磨かなければただの石ころで、資本主義の申し子のようなヒロインのお助けがなければ一歩も踏み出してなかったでしょという展開にしてあるし、現実やそれへの適応を肯定してるわけでも否定してるわけでもなくて、いろんな矛盾を見せて視聴者に考えさせる構図にしてるのはわかる。そのへんこの作品が面白くないってわけでもないんだけど、なんというかもどかしい。言いたいことをはっきり言わないのが文学作品ではあるんだけど、もうちょっとすっきりしたやり方があるのでは?と個人的には思うし、でも、今ドキの読者に合わせたスタイルなんだろうなというのもわかって、そのへんやっぱもどかしいというしかない。
 しかしあの文学少女ティッシュを言われる前から用意してたって話だし、ヒロインによる主人公改造計画の前から好意を持ってたんじゃね?という気もするが、もしかして主人公、変身しようとしなくても幸せはすぐそばにありましたとかそういう話?。まぁなんともいえんけど。