ひぐなく業#16

 梨花が巫女としての自覚を促され、今までの惨劇が回避されるが…の巻。正直よくわからん。いちおう祟りはあったという形になっているんだけど、今まで視聴者には手掛かりすら与えてなかったその理由が沙都子の口から言語化されるのにちょっと胡散臭さも感じるし、沙都子が叔父から救われそうになるひとつ前のエピソードにしたって、運命は変えられるといってた梨花は、あれで雛見沢を出なくて済んだかもしれないし、もしくは沙都子が安全なのを確認して安心して雛見沢を出る決心をしたかもで、そのへんどういう仕込みなのかは不明。梨花は村一番の神社の巫女なのに孤児らしき境遇なのもなにか不穏なものが感じられる。
 個人的には正解にたどり着くまで試行錯誤を梨花に繰り返させるのと、祟りの存在の食い合わせがどうにもよくないと感じてるから、どうにもわからんといったところ。物語の先行きが読めないのはなんとも居心地はよくないのだけども、でもそのどこに連れていかれるかよくわからんというのも底知れぬものがあってよい。

オーフェン2#1

 話としては続いているから2と振るのはどうかとは思うが、前期はほぼ内容忘れてる。が、そういや何かを求めてキムラックに行くんだろうなというぼんやりした理解で、あとは視聴しながら補足で特に問題はなさそう。
 前期もそうだったが、この作品にストーリーの面白さを求めるというよりは、やはり20年前というか30年前というか、あの当時の日本の雰囲気をおさらいって感じで視聴してるのを再確認した次第。オーフェンがなんのかんのいって人助けをしてしまう…というのが当時の日本人の気質というわけでもないのだけども、いわば男はつらいよ*1みたいな感じで、当時の日本人が物語に何を求めていたのかという指標になる。
 今回ぼんやり思ったのは、やはり当時の日本人、なんのかんのいって、こう人としてということでいうと、誰もが共同体としての共通認識を持ってたんだろうなというのが窺えること。今だと企業にしろ学校にしろ、同調圧力は容赦なくかけられるのに、ではその組織のローカルルールに汎用性があるかといわれると全然そんなことはないという。まだ古い組織の面影を残してるところはあるんだろうが、基本それぞれの組織がタコツボ化した、もしくはサル山化したという印象を受ける。社会に余裕がなくなってるんだろうね。絶対的な貧しさからすると、それこそ高度経済成長期とよばれる昭和中期のほうが今より断然物質的な余裕はなかったハズなのだが、ないならないでなんとかなってたんだろうという気はする。周囲もモノを持ってないんだから大して気にする必要もなかったというか。
 今だと多様性の時代とか言われてるが、その多様性はお互いがお互いを許容できない偏屈なものになってきてるという印象。学校に多様性が押し付けられたのは正直マズかったと思う。自分と他人が同じであるという認識を持たなくてよいから、お互い勝手にすれば…という流れになるのは残当。これが同調圧力をかけても同質性を持ちようがないから、そこに相互理解は生まれない。別に一人一人が違うのはそうなのだが、共同幻想としての同質性を放棄したら、どこで妥協なり手打ちをするの?という気はする。この作品を改めて視聴して、あーまだその共同幻想が信じられていた時代だったんだなという感を深くしたというか。

*1:映画版初期のころはともかく、渥美清物故で強制打ち切りになる終盤は日本全国探しても寅さんみたいな人どこにもいなかったでしょみたいな感じ。