グリッドマン ~#12

 ふむふむのお供三本目。二次創作だか、関連商品だかで問題になってたようだが、放映当時はそれなりに話題になってたような記憶がある。グリッドマンという名称だから、今までの円谷作品のヒーローとはそれなりに毛色を変えてきたんだろうかと思っていたら、想像以上にウルトラマンっぽくて、ただ、なかなか現代に対応させるのに苦労してるんだなという感じ。グリッドマンに合体する各種兵装を受け持つキャラたちは、過去のシリーズの防衛隊員のような位置づけだろうし、それが現代日本に公式の組織として存在するってのは今となっては滑稽だろう。
 アカネは最初っから怪獣だったし、彼女が神であって彼女以外の人間は彼女の被造物ってのはおそらくフェイクなんだろうなとは思っていたのだが、グリッドマンの元ネタがウルトラマンであるということからすると、超人と怪物の対比なんだろうなといった感じ。ウルトラマンシリーズ、自分は子供の頃はアレを社会性がふんだんに込められた作品ではなく、単純なバトルものとして視聴してたわけだが、あの社会性は戦前の歪な構造を厳然として残していた戦後日本や近代市民として未だ目覚めていなかった日本人に対する痛烈な批判がメインテーマであるわけで、それを視聴者に提示することによって日本人が超人、こう人間の能力を拡張されたスーパーマンではなく、概念的により高次の存在であるところのウルトラマンであれというものだったのだろうと思われるが、今はそういう個々人としての精神性の高まりに期待するんじゃなくて、ネットワークのノードとしての、つまり格子上の結節点としての役割を期待されてるんだろうなという解釈をした。個人的にはやたらトモダチ幻想をふりまくよなぁと思ったのだが、今や政府による個人分断化が極まってる状態で、既存の地縁や血縁が崩壊してる現状、もう個人的な興味関心というものにすがって繋がれるところから繋がっていかないと社会を維持できないみたいなそういう判断をしてるんだろうかと思ったりする。結局の所ヴァーチャルな主人公である響や、一般庶民のメタファーである内海の家族は一切描かれず、物語上の敵と味方をつなぐ存在であった六花の家族も登場するのは母親だけで、親子関係もかなりフラットなものになっている。グリッドマン側もこう組織としての上部構造は最後まで現れなかったし、やはりお互いがかなり対等な関係性になっていて、やはりピラミッド型の社会構造というよりは、ネットワーク型の社会構造を示しているように思える。
 怪獣という単語を使ってはいても、やはり本当に使いたかったのは怪物であって、舞台が日常生活とはいえほぼ学校だし、そのへんはモンスターペアレントのモンスターだろうし、アカネが神だというのも、お客様は神様ですのクレーマー問題だろうしで、そのへんフェイクを入れてはいるんだろうけど、まぁそういう個人の肥大化した自我意識が社会を壊してるってことだろうし、そのへん明るい展望をなかなか持ち得ないテーマ設定だなとは感じる。
 ただ、うーん、なんというか、難しいだろうし受け入れにくいテーマを扱った割にというか、だからこそなんだろうが、物語として面白かったか?と言われたら、正直微妙な感じ。バトルシーンも実写のウルトラマンシリーズを意識した部分もあれば、現代の作画技術の粋を尽くした部分もあれば、こうなんというか’80年代や’90年代の誇張の酷い演出もあって、特に後者あたりはもう視聴しててシラケるというか、最後に実写シーンを入れるぐらいだったんなら、いっそのこと実写のバトルシーンをそのままアニメ化したような演出で統一したほうがウルトラマンシリーズのオマージュとしては良かったんじゃねぐらいには思った。
 まぁそれ以外にもネットワーク社会を意識してるとは言っても、ジャンクの古いPCあたりがインターフェイスになってるわけなんで、ネットはネットでもインターネット社会も扱ってるだろうし、そのへんなかなか意欲的だとは思うが、結論が結論なので、いやまぁそういう着地点にしないと価値観の多様化した視聴者群にとっては最大公約数的な答えにならざるを得ないんでわかりはするんだけど、口はぼったい言い方にしかならないんだったら、もうちょっと「コレはッ」というものが見えてから作品化したほうが良かったんじゃねという気はした。