暗黒破壊神

 俺たちの日常はこれからも続くENDかと思ったのだけども、キャラ達受験生で、高校生活も残りわずか。進学先は逐一チェックされているようで、お騒がせキャラたちは主人公についていくつもりマンマンで、しかも一軒家借り切って共同生活しそうな勢い。
 うーん、なんやろ?、この作品のテーマはそれこそOPやEDを聴いていれば、あーそういうことねとはっきりわかるようになっている。で、振り返ってみると、主人公、いろいろ問題の有りそうなクラスメートにつきまとわれながらも、結局の所それで退屈しない日々を送っていけたというわけなので、これ、ある意味脇キャラのほうが主人公のお世話役になってる。ヘンな話、暗黒破壊神たちのほうがセンセイあたりに、「おまえら成績は問題ないし楽しく日々過ごしてるから、成績の悪くてどん詰まりになってるあの主人公と友だちになってやってくれないか」と頼まれでもしてあんな関係になっていた…と言われても全然納得できる。それこそ最初の1~2話ほどは、モブキャラに個性なく事なかれ主義の生徒たちを描いていても、もう物語がスタートしてからはほぼそういう無個性キャラがでなくなるわけで、そのへんつきまとわれるのは嫌だとボヤき続ける主人公のセリフばかり耳にすることになるから、つい主人公の側に立ってしまいがちで、脇キャラ騒がしいなと思ってしまうのだが、それは構成上の大きなミスリードであることがわかる。仮につきまとわれない平穏な日々を主人公が送ったとしてもおそらく成績はあがることはないだろうし、そういう状況に追い詰められてしまえば、一人で立て直すことはかなわなかったろうなというのは容易に想像がつく。
 なんというか、前回がこの物語のクライマックスで、暗黒破壊神が暗黒破壊神を気取っていたのは人生上の大きな理由があるとわざわざ明かしていて、やっぱそうかとは思ったんだけど、個人的にはあのようなメタ台詞で種明かしするのはなんか反則じゃね?とは思ったのだけども、ただ、よく考えてみると、あのようにはっきりと種明かししてみせることによって、脇キャラの行動は、あれ全部演技でやっていた…という視点がはっきり現れるので、これはこれでアリだと思うようになった。
 なんつーか、正直なところ、やはりつまらない毎日を送ってる主人公が、デタラメでも日々を自分の思い通りに楽しく過ごしてる友人たちにつきまとわれて生活に変化が起きるという構造は最初っから見えていたし、そのへん主人公は小物だなという視点もあったのだけども、中盤まではやっぱストレスが溜まる(言うまでもなく主人公に対して)感じで、それが大きく緩和するのが最上妹の登場時からだった。それ以降だんだん薄紙を剥ぐがごとくストレスを感じなくなって最終回に至ったわけだが、これもよく考えてみたらそれなりによくコントロールしてたんだなとわかる。わかるんだけど、おそらく離れていった視聴者も少なくないのでは?とも思う。で、他の作品なんかは、大抵対等な関係にあるキャラ同士がお互いに歩み寄って繋がりを作っていくというテキストが多いのに対して、これはもう徹頭徹尾主人公が包摂されるという物語になっていて、あー毛色が結構違うテキストなんだなとわかって、そのへんにこの作品をアニメ化しようという動機が働いたんだなと気付いた。いじめでこそないんだけど、イジりに近く、かといって主人公もそれなりに自我があるので、典型的なイジられキャラともちょっと違う感じ?。
 とまぁ最終回まで視聴して、全体の構成を把握したらそれなりに理解はできるんだけど、やはり個人的に視聴してそんなに楽しいものでもなかったかなというのが正直なところ。アステロイドのような優等生的な交友関係と比べて、こちらのほうがよっぽどリアリティがありそうな*1もんだけど、このトリッキーな作りが個人的にはちょっとしんどかった。

レビュアーズ

 思ったよりは悪くなかったが、かといって積極的に視聴するような作品でもないかなというのが正直なところ。エロを取り扱っていてもデフォルメが効かせてあるせいか実はそれほどいやらしいとも感じなかったのだが、宇崎ちゃん騒動など、キチフェミ跋扈の状況の中、喧嘩上等のような態度のように見えて実はそれほどでもなかったという。セクシャリティに対する言及は逆に真面目さを感じてしまうぐらい。あとちょこちょこ政治的な言及もあったのだが、内容自体は政治一般的なものであって、決して現政権批判を名指しでというものではなかったのだが、なにしろ現政権があまりにもデタラメなんで、通り一遍のことであってもそれが結果的に強烈な批判のように聞こえてしまうのはまぁ仕方がないというか。
 エロティックかどうかについては、なんつーか、他のアニメの隠微な描写だとか、ヘンな話個人的にはリンドリの一枚絵のほうがよっぽど体が反応するってなもんで、放映当初はそれでもそれなりに批判されていたようだが、コレに関してはそんな槍玉に挙げるほどの表現でもないといった印象だった。深夜アニメだし、公式HPに行ってみれば内容は確認できるんで、ゾーニングはあくまで自己責任でという感じだろうし、それでオッケーなのでは?と思う。

ソマリ

 なんかいつまでもゴーレムとソマリは一緒みたいなEND。正直困惑。確かにまだゴーレムの寿命はまだなんだろうけど、最終回の今回だとこの場面は今際の際の場面と同格のはず。例えば死期を悟った猫がいつのまにかいなくなるだとか、そういうシーンに相当するからソマリに懇願されて思いとどまるのならオマエの決心って一体何だったんだ?みたいな。おそらく原作はまだ続いているだろうから、途中経過として一旦の確認作業だったと解釈するしかないが、視聴してるこっちは、最終回だからこその悲壮感演出なのに興ざめといったところ。
 うーん、それなりに泣かせが目的の作品なんだろうという気はするのだが、それにしてもやはりソマリは自主外交の出来ない日本のメタファーだという要素が結局最後まで払拭できなかった。ソマリが日本なら、ソマリの保護者であるゴーレムはさしずめ合衆国にあたるが、現実の合衆国はあんなに口数が少ないはずないし、世界最大のテロ国家なので、なんかメタファーとしてはぜんぜん違うはずなのだが、ゴーレムの役割をソマリの保護者に限定し、それ以外の合衆国の要素を切り捨てたと考えると、そうそう当たらずとも遠からずといったふうに思えてくる。なんつーか、確かに世界一の超大国でありながら、世界の警察としての役割をなくしていき、世界全体の管理者というには没落の真っ最中であるみたいなところあたりはそれっぽいがなといった感じ。それが物語を通じて、日本が合衆国だよりにいっこうに自立しようとしない甘ったれであるという状態を描いているのだとしたら、結構それはあてはまってるんじゃね?とぼんやり思ってた次第。自分としても、そういうメタファーであってほしくないみたいな願望もあったのだけども、最後の最後まで単純な物語として見ることは出来なかった。
 まぁ難しい話で、そもそもソマリがなんで人間狩りにあっていたのか、そしてゴーレムと出会う前は他の人間と共同生活をしているはずであり、おそらく実父実母はいたはずだが、なぜすっかりそれが記憶から抜けているのか、そして初対面のゴーレムをなんで父と呼んだのか。はっきりいって前提条件が謎だらけ。しかも人間狩りの首尾によってはソマリはかなりの確率で命を落としていたはずで、それは一生忘れられない恐怖体験であったはずだが、ゴーレムと一緒になることによってなんであんなに危機意識が抜け落ちるのか。こう、世界名作劇場あたりのいろんな物語でも、極貧状態でも常に明るさを忘れない健気な主人公だったらいるのだが、恐怖体験があるのに行動が無鉄砲なのは他に例がないし正直自主外交の出来ない日本のメタファーという視点がなければ到底理解できるものではない。危険を呼び込むような行動をさせなければ物語として動かしにくいという理屈はわかるが、個人的にこれでソマリに感情移入しろと言われるのはツライ。とはいえ、原作(お涙頂戴モノとして)そこそこ人気があるようだから、オカシイのは自分の方なんだろうな…。
 あと、気になったのはOP森山直太朗の歌い方。森山といえばさくらなのだが、確かに母親と違ってこうウェットな歌い方なのだが、このOPはもうこれ以上ないと思われるほどのネットリ具合で、気色悪いというほどではないが、アレ?、森山直太朗ってこんなキャラだったっけ?ぐらいの強烈な違和感があった。歌詞の内容も、こう、なんというか、象徴的というにはちょっと毛色が違って、ゴーレムの胸の内といわれたらああそうかと思わなくもないのだが、なんかやはり何がいいたいんだろ?と不思議な感覚にとらわれる。しかも朗々と歌い上げるので聞き取りやすいことも相まってなんか意図が読みきれずにいつも「???」といった妙な感覚があった。
 個人的にはやはり世界名作劇場だとか大人も楽しめるように作ってある童話に近いなにかあたりを期待して視聴してたんだけど、どうにも掴みどころのわからない不思議な作品だったという。いやまぁ自分の読解力がないだけの話なんだろうけど。雰囲気からして寓話なんだろうけど…原作売れてるんでしょ?。

*1:地に足がついている