ネコぱら#8

 これ、今ドキの若い人わかるんだろうか?。時雨が失った元気を取り戻すってだけの話なんだが、自分なんかは途中あたりで、おそらくこれはかつての専業主婦の憂鬱みたいなもんだろうなと気づいたんだけど、今ドキ専業主婦なんて過去の遺物扱いだし、ならば共感どころか意味わからん人多いだろうなとは思うんだが。
 時雨の立ち位置が微妙な感じだが、アニメ公式サイトにも水無月家は和菓子屋だと書いてあるし、でも今まで和菓子屋という描写見たことない。で、嘉祥は跡取り息子だったはずだが、パティシエになりたいと実家を飛び出したという設定だし、ということは時雨は今まで和菓子屋の跡取り娘という扱いをされてこなかったはず。で、今まで和菓子屋を手伝う描写とかなく、やってることはネコたちの世話など、まぁいうなれば家事子育ての場面しか見せてこなかった。となればもう自分にとっては時雨は専業主婦の役割としか思えないわけで。
 まぁ描かれてないことを補助線引いてあれこれ考えるのもあとでちゃぶ台ひっくり返しがあるかもだが、跡取りは嘉祥であるが、時雨も着物を普段着にできるぐらいだから、実家は相当太くて、蝶よ花よと愛情たっぷりに育てられたものの、決して和菓子屋の跡取りではなく、いずれは嫁に出される前提だったろうし、だから料理ができるのも家事をしてるのも花嫁修行の一環で、ネコをたくさん飼ってるのも嫁に行くまで好きにさせてやろうとの親心なのであって、まぁ将来自立した女性としての生き方はさせてもらってないと見るべき。そんな彼女が能力を発揮するのはせめて他人に愛情を注ぐ事なのであって、ネコはネコでだんだん成長していくし、嘉祥はパティスリーも軌道に乗りつつあるし、ふと、自分がやってることは何かと無意識にでも振り返ってみるとそこに成長や発展要素は見られないのであって、なるほどこう力が抜けてしまうというのもわかるというか。
 で、最後ネコたちが心配して駆け寄ってくれるところで元気を取り戻すというのも、あれ、決して自分のやってることをこじつけで意味づけするんではなく、ネコという他人から彼女のやってることに意味づけしてもらって、そこで我に返るというのはよーできてるといえばそう。最近一緒に寝てくれなくってネコ分が不足していたからとか、まぁそんな単純な要素に集約できるはずもないよね…なわけだが、しかし、専業主婦という、現代ではもう絶滅に近いテーマを持ち出してくるのはなかなか考えさせられるものがある。あんまり長々と書きたくもないのだが、今男女の家事分担だとかいって男が家事子育てしないからダメって風潮になってるんだけど、あれ、男に押し付けようとしている側は「オレが苦しいんだからオマエも苦しめ」と言ってるに過ぎなくて、これまた地獄だなぁとしか思えないわけで、へぇ、男だろうと女だろうとどちらが家事子育てやっても構わないのに、どちらも賃労働と家事子育てをやれとか、わざわざ社会的分業を捨てて効率の悪い方向に進むの頭悪いねぇというわけなんだが、昨今の経済事情だと共働きでないとやってけないということもあって、仕方がないと思いきや、日本が豊かであった時期から女も自己実現とかいって女自体がそれまで自分がやってきた家事子育てを見下してきたんだよなと思うと、これまたやっぱり頭が悪いなぁという、もういろいろ何が原因かと振り返ってみたら、なんのかんのいって近代的自我を追求するあまり、愚かな選択をしてしまってるねぇといった感じ。
 うーん、なんやろ?。大昔のように貧しい時代だったら、大金持ちになりたいだとか、カネをたくさんもらえるために出世したいというのが自己実現になっていたというのは仕方がないんだが、が、社会が豊かになって必ずしも全員が飢えなくても良い時代になっても、その大金持ちになるだとか出世するということ自体が自己目的化されてしまって、それがいわゆる成功のモデルケースとなってしまい、それみて庶民や女どもが指くわえて、「自分もああなりたい」とばかりに必要もない競争社会に突入し、草刈場になってしまえば、もう出世するためには自分でイノベーションなんて起こせるはずもなく、他人の足を引っ張るだけの社内政治に長けた人のみが出世するようになってしまって、結局そいつらが社会を荒らして自縄自縛に陥ってるんだよなと思うと、なかなぁねぇ。そういう連中が経営層の大部を占めるようになって日本経済が発展しましたか?、そういう連中が政治屋の大半を占めるようになって日本の国力は上がりましたか?と振り返ると、今の状態ホントにそうなってる?って感じ。正直なところ、フェミに問いたいが、男のすべてが出世して自己実現したいと思ってた?とか。あんたら出世して管理職になってる連中をキラキラした目で見てるだけで、結局そいつらが食いつぶした社会資本について考えが及んでる?とか聞いてみたい。
 で、嘉祥がパティスリーを経営してるのも、そういった全国チェーン店にでもしてカネ稼ぎたいという描写なのかどうか考えてみたら面白い。今回の時雨が専業主婦のメタファーだということにしても、男女共働きが当たり前になった現在は、ある意味において男女平等が実現したといえなくもないんだけど、結局専業主婦がそれなりに当たり前に存在してた昔と比べて豊かになっていると本当に思ってる?、女が社会進出できたからと言って本当にやりたいことがやれてる?、結局産業界にやりがい搾取されてるだけなんじゃね?、もっといえば、自己実現といったおためごかし、最初っから産業界が搾取しやすいように誘導されていたことわかってる?といった感じの主張のようにも見えてしまうんで、個人的にはこの作品が構造としてノスタルジーっぽく描かれてるの、なかなかにして奥深いなと思ってしまうのだが。