ネコぱら

 〆に水着回とかやっぱ萌えアニメだよなぁと思っていたらそうではなかったという。いちおう自分としてはかなり気になっていた水無月家以外のネコの近代市民化が最後の最後で描かれて、やっぱそうだよなぁと腑に落ちた次第。まぁそのへんボかしてるというか、敢えてはっきり言わないようにしてたと思うんだけど、海の家でネコが働くことがわざわざニュースになるってことは、おそらくネコが人間同様に働くことがめったにないからと考えるべきだが、そのへん別に海の家の顛末を水無月家が知りましたという機能しかないので、リアリティは正直意味がない。だが、やはり自分としては今の今までネコが人間のように働くことを一切描いておらず、最後でようやっとそうしたのはそういう意図があったと思うしかない。ショコラ達水無月家のネコたちがパティスリーで働くのも、あれはネコの社会人化ではなく、ちょうどちよの祖母の家のネコが下女として働いていたのと同様、飼いネコが飼い主のお手伝いをしてるという範疇だったのだろう。
 さて、この作品がおそらくネコという被差別階級(という記号というかメタファー)の近代的自我の獲得という物語なんだろうなということだとして、やはり思い返すのは夏目金之助の「坊っちゃん」になる。
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魚拓

 この歳になって読み返してようやくわかったというか気付かされたというか、面白いのは、これが二重構造になってること。話は飛ぶが、自分が中学生だった頃だったか、従兄弟の家に正月泊まって、深夜映画(昔は年末年始は深夜に映画を放映することが多かった)を見ようとしたのだが、その作品の1つにベン・ハーがあり、タイトル見てちょっとばかしたまげた記憶がある。それというのも、ベン・ハー、なにより戦車のシーンが有名で、それまで自分はあれはガレー船の漕手になったりして奴隷の身分で辛酸を嘗め尽くした主人公が復讐を果たす話だとずっと思っていたからだ。ところがタイトルに添えられてた“A Tale of the Christ”の副題を見て、「!!!」となったわけだ。要するに「ベン・ハー」は架空の人物ベン・ハーの物語だけでなく、キリストの生涯も織り交ぜて描かれた、主人公が二人いる物語ということにその時初めて気付いたということ。ベン・ハーが表の主人公としたら、裏の主人公はキリストになる。
 で、「坊っちゃん」も同じとはいわないまでも、それに似た構造なんだなと、今回読み返して思ったわけである。で、気になって調べてみると、日本人にとって有名な「ベン・ハー」は戦後にチャールトンヘストンが主演した映画が人気だが、これ、原作小説があって1880年初版で、世に出たときからベストセラーになったらしい。「坊っちゃん」の発表は1906年だから、もう四半世紀もあとのことで、夏目金之助がこの小説を知っていて参考にしたのかどうかはわからないが、夏目、公費でロンドンに留学してるし、「坊っちゃん」が彼自身の体験をもとにしてることで誰もが知ってるように、彼自身英語教師なのであって英文学(ベン・ハーは米文学ではあるが)に明るいから、まぁ知っていてもおかしくはないだろう。
 で、坊っちゃんであるが、これ、ベン・ハー坊っちゃんであるとすると、キリストは清であって、まさに裏の主人公は彼女なのでは?という気がしたのだ。


 さて、清のことは、作中に、

ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。

 と書いてある。

 明治の文豪と呼ばれる人々の作品群は、大抵「近代文学」と称されるわけだが、近代文学にいろいろな特徴があるが、やはりその中でも「近代的自我」を要件の1つとして描いている作品は多い。それを念頭に置くと、上記の“封建時代の主従のように考えていた”ということから、普通清は前近代人だと思うだろうし、実際若い頃の自分もそう考えていた。ところがこれがクセ者で、清の描写を何度か読み返してみるとなにやらオカシイことに気付いてしまったのだ。清は零落した旧家の子弟で、困窮してやむにやまれず下女になっており、そういった意味では彼女に職業選択の自由はなかった。もし実家が落ちぶれていなかったらもしかすると明治時代自分の人生を謳歌した女性は数は少ないなれどそれなりに居たであろうし、夏目はむしろそういう女性をよく知っていたはずなので、彼女はカネ持ちのままでいたら近代的自我を獲得していた女性として登場させていてもよい。なのに「封建時代」なのだ。
 で、清(と坊っちゃん)の描写をよく読んでみると、坊っちゃんの両親が亡くなり、家を処分しなくてはならならず清を置けなくなって、では清はどうしたかというと、彼女には甥がいて、その厄介になるという。で、オカシイのは、実はそれまでにも甥に来るなら来いと何度か言われてたということが書いてある。つまり、清は経済面でやりたくもない下女をしかたなくやっていた…ということではなく、むしろやりたくて坊っちゃんの世話をやっていたということが、もう初老になろうかというこの自分の目に留まったわけだ。
 そうなると、もう頭の中で「坊っちゃん」に対する自分の認識の組み換えがごそごそっと行われる。清は仕方がなく下女をやってるのではなく、それも誰にでもというのではなくってこの人ぞと心に決めた人に仕え尽くすということを“自主的”にやっており、自分の仕事に誇りを持っていたのなら?…と考えると、もうこの作品の構造がひっくり返る思いがした。そういえば、清は両親に見切りをつけられた坊っちゃんをもうこれは献身的に支え続ける描写が具体的なエピソードで何度も語られる。坊っちゃんの心が折れたときにも清は必死になって彼をかばい、坊っちゃん自身からえこひいきなんじゃないかと思われるほど支え続けるのだ。
 で、結局松山中学に赴任することになって清と別れるわけだが、そこで学校の管理職の不正に黙っておれず、職を辞して東京に帰ってくる。さて、この坊っちゃんの決断だが、これ、今でいうと、上の不正に黙ってしまって、命令されたら公文書改竄も偽造も行って、自分の身の安全を図り、あまつさえ進んで不正に手を貸して不相応な出世までする…ということが現代のこの現在の今、まさにこの瞬間にも起こっているわけなんだが、それに比べたらどうか?。坊っちゃんにしてみればそういう不正に手を貸すぐらいだったらいっそのこと身を引くという決断をしたわけで、不思議なことだが、扱ってるイシューはまるで100年も前のこととは思えない現代性というか、時代を超えても変わらないテーマを扱ってたんだなということに今更ながら驚かされる始末。
 さて、この坊っちゃんの態度、人によっては年相応の枯れ方をしてない、いつまでたっても清濁併せ呑む器を持てないガキと思う人もいるだろう。が、権力者の権力維持に協力してしまう生き方、そんなに仕方のないことか?と言われると、まぁそりゃ権力側について甘い汁を吸ってる人間はそうだろうけど、実際に日本がこれだけ権力側に富をチューチュー吸われて庶民が困窮している現状だと、そりゃ許されんだろという話ではある。日本も工業化を深化させて、決して国民が飢えなくてもよいだけの蓄積がありながら、実際にはその富を権力側が搾取の限りを尽くして餓死する国民もまだ後をたたない。明治とは文明開化とか工業化を果たした時代だという印象が強いから、さぞかし経済発展を続けた時代だと思いがちだが、実際には明治中期あたりの庶民は江戸時代より生活は厳しくなっていたという話だから、まぁこの小説が発表された当時、一部の評論が言ってるような「坊っちゃんは大人になっても正義感を振り回す精神が幼稚なキャラクター」だと思われてたかどうか。
 で、坊っちゃんを不正を止めることができず、長いものに巻かれる方がラクだとむしろ不正に手を染める人間ではなく、せめて身を引いて自分から不正には手を貸さないぞという人間に育てたのは誰か?と言われたら、そりゃもう一人しかいないでしょという。もし、坊っちゃんが両親の生き方を良しとしていたら?とか、坊っちゃんが彼の人生で世間に揉まれて結局の所信念を曲げてしまって寄らば大樹の陰のほうがラクだと学習してしまったら?、そりゃ松山中学で長続きしてたでしょということになる。やはり彼が最後の最後で自分の正義を貫き倒す人間になったのは、彼が不遇なときにも、心が折れてしまったときにも、果ては彼自身が間違っていると思うようなことにでも絶対に彼の側に立って支え続けた清の存在があったからこそであると見るほうが自然だろう。要するに清の教育は成功した…という結果になってる。
 なので、これは坊っちゃんの物語とは別に、清が坊っちゃんをひとかどの人物と見込んで彼を支えるという仕事を「自ら選択して」、それが達成されたという物語の二重構造になっていると解釈したという次第。つまり、清は前近代人なのではなく、それはミスリードであって、彼女こそ近代的自我を獲得してる人物として描かれているわけだ。坊っちゃんに関してはもうこれは生まれからしてそういう描かれ方をされてないわけだから、近代的自我というテーマでいえばむしろ清のほうが坊っちゃんを超える主人公だともいえる。


 というわけで、話は戻ってこのネコぱらなのだが、やはりこの作品も、そういう近代的自我を今更ながらテーマにしてる作品なのでは?と考えると頗る面白い作品だったというしかない。ネコが人間と同等に働く描写が今まで一切なく、最後で海の家でネコが働くことがわざわざニュースになるような世界で、ではショコラ達はパティスリーでお手伝いをするぐらいであって、決して経済的自立をしてるわけでも、近代市民としての権利を獲得してるわけでもないんだが、では状況的には奴隷といっても良い存在でありながら、パティスリーで手伝いしてたり、日常を過ごしているネコたちが不幸に見えますか?とか、時雨がおそらく箱入り娘であって、いわゆる現代的な「自立した女性」という育ち方をしてるわけでもないんだが、この最終回でネコのマッチングをやってるという社会的な役割を果たしていることが明らかになったわけで、彼女の生き方、そんなに悲観するようなものでしたか?とか。ネコたちや時雨が何のメタファーか?と言われたら、まぁそうよねぇというしかないのだが。ただ、かわいいキャラクターたちが戯れる姿を眺めて萌えるという要素もあるんだけど、そのへんアイロニーもしっかり混ざってるよねと個人的には思ってしまうわけだが。