ガルフレ レイド終わる
結局後半連勝はマカロン1とって終わった。とにかく飴が余るのだ。連勝SRはそのままだとステータス低めなのだがマカロンを食わせてやると割と戦力化する。なのだが、フルマカまでやろうとすると炭酸消費が洒落にならないし、1マカでも正直戦力化は難しい。今月は自分の手持ちでは弱点のクール属性だったから、数合わせでも十分戦力になるのだが、自属性のポップだと、副センだともう攻援が20000程度ではもうはいるのが難しくなっている段階。
さて、メモなのだが、後半トリオだと、開始時Lv46では 自属性POP(対SWEET)で♥11、SWEET(対COOL)で♥12、COOL(対POP)で♥13ぐらい。1マカ寸前のLv60程度だと色炭酸にプラスアルファとして♥3~4ぐらい。
結局超レアトリオテープを剥がすのに飴中心に使ったのだが、もしかすると色炭酸を積極的に使えば、飴と色炭酸消費だけで、ノーマルやハーフ炭酸は使わずにマカロンは2つ入手できるかも。
ぼく勉ちょっと自分の考えをまとめとく。
昨日ダメなのに楽しみにしてると書いて、もちろんその自覚あってのことなのだが、いざ書いてしまうと凄いなと自分でも驚いた。で、アニメ公式サイトにいってみてビックリ。今までの脚本全部雑破業。なるほど、なので視聴意欲が減退しないのかと納得した次第。しかし雑破業、最近オリジナル作品がなくて、こういう素性がいまいちの作品に手を入れて底上げする仕事ばっかだなと思う。誰か雑破業に好き放題やらせてくれる剛毅なスポンサーは現れないものか。
さて、ぼく勉なのだが、自分が第1話を視聴している最中悶々としてたのは、なぜ主人公はヒロインたちの志望動機を聞かないのかということ。結局それは〆で明らかにされたので、なるほどそういう構成にしたんだなとは思ったのだが、不自然には感じる。その不自然さは、やはりヒロインたちが自分の得意分野を放り投げてまでもやりたいことがあるのに、そのやりたいことのために頑張るということがなぜ示されてないのかというところに依然として残ってる。人間好きなことは人に強制されなくても自然にやる気を出すらしいので、だからやれ動機づけだとか重要視されて、学校教育でもやる気を評価とか言い出して教育システムがボロボロになっているわけだが、そのへんの疑問をどう解消していくんだろう?と気になっている。
まぁこれはファンタジーなので、そこまで言っても仕方がないのだが、ヒロインズは得意分野は天才とまで言わしめているのであるが、これ、今の受験制度だと彼女たちが天才と評価されるのがありえない。進学校の経験者ならわかると思うが、一科目だけ飛び抜けていても全国模試を受けたらてんでお話にならないから、学校があれだけ優遇すること自体ありえない。学校だけでなく周囲も「変わったやつ」扱いするわけで、結果として一般人と同じように埋没するのが普通。
でもリアリティをあげつらっても仕方がないわけで、結局事実として原作はウケているんだろ?と思えば、それを解釈するしか無い。で、これはやはり勉強ができない生徒ができるようになるという成長モノなのであって、そういうものに支持が集まり始めてるんだろうなというのが思いつく。これも個人的には不思議な話で、ごく最近まで「学校の勉強が何の役に立つのか」という主張が幅を利かせていたわけで、この数年でその風潮が変わり始めてるんかな?という感じ。今までのサブカル作品、学校が舞台になっていても、勉強ができるようになることには何の好意的なものを示さず、単にモラトリアムである環境をひたすら賛美するような風潮だったはず。お前ら今までさんざん勉強をバカにしときながら、心の底ではできるようになりたいと思っていたんか~ってなもんで、なんだかなぁといった感じ。といって、いくらジャンプ連載だからといえども、昔ほど総売上部数が多いわけじゃないし、女性読者の割合が多くなっているようなので、そもそも傾向としてジャンプで人気があるということをサンプリングとして適切ととって良いとも言えないだろうし、読者層が変遷していることはそれなりに考慮に入れるべきだろう。
個人的に面白いと思ったところがあって、それはうどん娘にからむ白衣娘の登場。これは個人的にこの作品の風景ががらっと変わった瞬間。高校ではないのだが、自分が大学に行って一番オモシロイと思ったし今もなお評価しているのが、同世代なのに価値観がかなり違う他人との交流なのだ。だから、白衣娘が「得意分野があるのにそれをなげうって他のことに血道を上げている」という姿を目の当たりにして、そりゃ興味を持たないわけがないでショというわけだ。
まぁ普通に考えたら原作者もリアリティが無いことはわかっていて、そりゃリアリティを追求してしまったら読者は獲得できないでしょと判断した上で、ではなにを読者に提示したら良いのかを模索した上で作品を作り上げているわけなので、そのへんを見極めていくのが個人的にはこれからの視聴のポイントになる。例えばの話だが、昔はお笑い芸人といえば、食い詰めているとかそれに活路を見出すしか無いという、かなり追い詰められた状態で仕方なく志望したというのが多かったのだが、今や、進学校に通うような学力の高い高校生が、博打要素は強いとはいえ大学進学とおなじ範疇で志望先に選ぶものになっているわけで、そりゃまぁ漫画家や作家も(昔からではあったろうが)そうでしょってなもん。
あと、「勉強ができること」への回帰は、日本の全体的な貧困化があるのかなという気がしないでもない。もう10年ぐらい前に目にしたと思うんだが、「小学4年生の壁」というのが流行った時期があって、それが数年のうちにやれ小学1年生の壁、小学2年生の壁とかどんどん増えていって苦笑した覚えがある。昭和時代だったらありえなかったことが、今大げさでなく真剣に語られているのを見ると日本落ちるところまで落ちていってるなというしかない。塾に通わなければ学校で教えられるだけではもう学力の維持ができないとか、で、その塾はなにやってるのかというと、基本的に特別なことはしてなくって、むしろ「子供をほうっておくと勉強なんかしないから、わざわざカネだして塾に通わせて勉強する時間を確保する」ものであったりする。アレ?みたいな。
なんつーか、南北戦争後、奴隷解放を行っても半分ぐらいは「元の雇い主」のもとに奴隷として戻っていったらしいのだが、結局知識がないと貧困から抜け出すことができない。これは現代でいうと「店に行ってモノをどうやって買うのか」「電車の乗り方」すら知らない状態。自由に振る舞えといっても貧困から抜け出すためのアクセス方法がそもそもビルトインされてないということが問題になる。今までは日本落ちぶれたといっても高度経済成長以降の蓄積があったから、クレーマーやモンペなどの庶民も消費者目線で威張り散らしてもなんとかなっていたのだろうが、こう企業が日本人を労働者としては切り捨てる段階で、政府も基本搾取だけしかしない(オトモダチには優先的に配る)となれば、ぬるま湯につかり続けて頭がボケたままの大人はともかく、いまや切り捨て対象となっている中流家庭から貧困層の子供は、具体的に何が問題かはわかっていなくても、肌感覚で「これではいけない」と感じ始めているのかも。