Re:CREATORS 第14話

 かなり混乱させられてしまった。だが、あーでもないこーでもないと考えさせられることが楽しい。ちょっとこれは久しぶり。
 長くなりそうだし、とりあえず頭に浮かんだことを忘れないうちに書き留めておくかというのが主旨なので、書き終わったら矛盾だらけになりそうなのはご容赦を。
 まづ、気になったのは、混乱して状況を把握したんだから、じゃぁ後は由来となる作品は違うとはいえキャラ同士が共闘してことに当たるのは当然だよね…という自然な展開ながら、これがうまくいくはずもないだろというのが頭に浮かんだこと。前にこれはスパロボ的なものと書いたと思うのだが、アレは基本的には最初にプレーヤーのお目当ては決まっており、そのロボットで無双するという前提があって、プレイを進めてもし他のキャラに興味が移ればそれに乗り換えても良いという、データベース型消費の最たるもの。ところが、今回示されている状況というのは要するに多作品群ごちゃまぜのコラボなのである。もちろんこれもデータベース型消費の一形態であるのだが、異なる作品同士の共闘が重要になっている。で、思い起こしてほしいのだが、普通コラボが成功することはない。そりゃキャンペーンとしてにうまくいくということはあるのだが、コラボして出来た作品が原作を超えるものになったというのを耳にしたことがない。それもそのはずで、それはコラボ元の作品が、ある程度ヒットしており、そのヒットは必然的にファンを惹きつける要素があるからで、それはキャラとその背景というか世界観のセットでファンに受け入れられているおかげだからだ。世界観がキャラを引き立てるように作られるのは言うまでもないが、逆に世界観も魅力的でないとダメだろう。何をやってもうまくいくような環境で、キャラが栄達していくなんてのをそんなに読者は受け入れるだろうか?。現実とはとかくうまくいかないものだという認識が読者にもあって、それを仮託した環境でキャラが努力なんなりをするからこそ、読者はその世界観を通じてキャラに感情移入していくわけであって、また努力しなくてもホイホイ問題を解決していっても何の面白みもないわけであって、そのへんキャラと世界観は相互相補的なものとみなすべき。ところが今回の場合、その世界観というか、戦いの場を共有するということなのだから、その世界観を捨てろとでもいうかのように聞こえる。しかも出来上がったコラボ作品は、読者の支持が得られないといけない*1わけだからこれまた難しい話である。
 この共有というテーマは実に厄介で、今回自分がはっきりと気づいたところは、結局の所この作品だって見る人を選んでいるんだよなとわかってしまった。いろいろな作品のキャラが同時出現して暴れまわり、現実社会の人間は困っているという設定だが、なぜそのキャラが出現したのはファンがついているからということで、ヘンな話、ラノベやアニメを見ていた人たち「だけ」の思いが具現化して、じゃぁ、ラノベやアニメなんかにちっとも関係のない人たちにも危害を加えている状況なのか?と言われると、これまた難しい。何の気なしに視聴しているとラノベやアニメに興味のない人たちも巻き込んで騒動が起こっているというふうについ思ってしまっているのだが、思い返してみるとこれみよがしに無関心層が巻き込まれているという描写はないような気がする。真鍳が意図的に殺したのは自分の原作者と書店主人であって、アニメやラノベに関与しているステークホルダーなのだ。一般人と思しきモブはたくさん描かれているからなんともいえないが、彼らも身なりはパンピーだが、ラノベやアニメの愛好者だよと見ることもできるし、もちろんアニメやラノベの無関心層と見ることもできる。が、こゝまで一切主人公の父母を描かないとかいろいろ判断すると、クリエーションに関係ない要素は巧妙に排除されていると見るべきだと思う。
 では本当に、これはアニメやラノベの無関心層を切断処理してレッツゴーなのかと言われると、それも難しい。昔はアニメファンだといえば、例えば土曜夕方のロボットものは見てるだとか、それほど関心がなくてもついドラえもんサザエさんは見てるだとか、なんのかんのいって共通の話題があったものだが、もう興味が多種多様化してタコ壺に入ってしまっているというか、だからこそコラボは複数の作品を組み合わせてさらに優れた作品を作るのではなく、お互いの顧客層を誘導しあうという情宣効果を期待してのことであり、やはり究極的にはそれぞれの作品の個性は壊さない方向になっているわけで、データベース型消費という構造を壊すどころか強化することにしかならない。しかし、多種多様化したのは興味関心だけでなく、もう生活環境そのものが多種多様化しているというのが現代社会の有様なのであって、もしかしてそのへんのことも考えているのかなと思わなくもない。兎追いしかの山とは日本人なら誰でもこういうふるさとを持っているもんだとでもいわんばかりの歌詞ではあるが、別にずっと都市に住み小鮒釣りしかの川を知らない人もいたわけなんだが、あの京都ですら何代住んで京都人と、居住年の長さを他人に主張しなければプライドを保てないほど都市というのは地方からの流入人口が多かったわけで、たとえ自分が「ふるさと」のような故郷を持っていなくても、何代かさかのぼれば祖先はおそらく「ふるさと」を体験していたであろうなと思うほど、共有感覚というものはあったと考えるべきで、しかし、そういう日本人はもう少数派と言わざるを得ないという気はしてる。だから色んな作品からキャラが現出して…というのは、実は多種多様化してしまった日本人のメタファーなのであって、では価値観が既に多様化してしまったその日本人が、いまさら全く同じになれとはいわないんだけれども、しかし共通の問題に関しては共闘できるところはできるだけ共闘して解決に向かって頑張っていきましょうという素地にはなっているわけで、しかし本当にそういう主張にするのかなといわれると、ちょっとそこまで言うつもりはないのかなという気はしてる。それが先程述べた、ラノベアニメの無関心層に対するこれみよがしな描写がないということなのだが、これも今露骨に描かないだけの話かもしれず、なんとも判断は難しい。まだ半分しか到達していないわけで、問題解決がすぐになされるわけでもない。試行錯誤を繰り返し、軌道を修正していく過程で、問題点が明らかになり、それがバラバラになってしまった日本人の共闘の仕方の指針にでもなっているといゝのだが、やはりそこまで描くかねぇといった感じではある。

*1:世界観の共有があまりにも難しそうな魔法少女は排除されている