あまんちゅ! 第12話

 こういうのをなんで中盤ぐらいにやっとかないかなぁ。
 いや、まさにこの話を最終回に持ってくることから逆算してシリーズ構成をやってるんだろうけどな。こうやって終わってみれば日常パートゝダイヴィングパートのバランスが悪かったなぁと。時間配分ということじゃなくて、日常パートはこの作り方だと中身がスカスカなので、ダイヴィングパートのワクワク感との落差がどうしても際立ってしまう。個人的には中盤以降のダレ感がどうにもダメだった。
 さて、このアニメ作品がそもそも一般ウケしたかどうかちょっと気になるところではある。原作に対する印象がなまじっか悪くなかったので、こりゃ原作ファンは怒るんじゃね?ぐらいには思う。自分は別にアニメ作品を作るにあたり、完コピを最初っから狙わないのであれば別に原作の再現度とかどうでもよいので、では原作とは別作品として見るならばそこにどんな意味を込めてるの?という観点にどうしてもなる。そこのつきつめが甘いとうーんといった感じ。
 監督ではないけど、いちおうサトジュン作品だということで注目してたのだが、ちょっと今までと違って迷走している印象。最后の最后で結末がアレかよというのはあるが、カレイドスターは好きな作品だしAriaたまゆらも友人に言わせればダメだしの多いものだが個人的には意味のある作品だと思っている。ところがこの作品は正直なところAriaがそれなりにHitしたから安易に原作を引っ張ってきたというだけで、この作品を世に紹介して何を伝えたかったのだろう?というのがわかりにくい。原作者がダイヴィングに嵌って漫画化したというのはどっかで述べられていたと思うのだが、そんな趣味性の高いものをよりにもよって庶民が窮乏化していく過程の今取り上げることってなんなんだろ。
 Ariaがアニメ化された当時はブラック企業(ブラック労働)が社会的に認知されつゝある段階で、だからこそなに甘い世界を描いてるんだ!という批判も多かったのだが、いやいやその現実のほうがおかしいんでしょという意味合いがあったように自分には思えるので好意的に評価してる。たまゆらがちょっと難しくて、これも高校生が自分探しをするって描写が多かったのだが、構造的に考えてみると、主人公が父親をなくしているという設定の意味、主人公達が地元を中心にいろいろ活動しながらも結局卒業していくという意味合いなどを考慮すると、それらは当時から今に至るまでの日本の状況を示していると考えるのが自然であって、父親の死=家計を支える屋台骨の喪失=日本の産業の衰退を示しており、地方に注目しながらもそこから卒業させるというのはやはり日本そのものゝ衰退からそこからの脱却までを暗示していると考えてもおかしくない。たまゆらで象徴的なのが主人公(やその父)をつなぐものとしての小道具に銀塩カメラを持ってきていること。これ、日本が高度経済成長期を経て技術向上しそれで戦略的製品として海外に大々的に輸出されてきた製品。キャラ達は携帯端末を持っていたからそれでなお銀塩カメラにこだわっていたというのはそういうことかと。たまゆらは地方でのいゝとこ探しの作品と見るのも可能だが、逆に衰退した地方でこれでもかと日本がダメになった原因を見せて若者に絶望的な状況を悟らせる作品と見ることもできる。
 ところがこの作品にそういう尺度を当てはめるとかなりしかめっ面な作品であるぐらいの衝撃的なもの。どう考えてもてこは弱体化した日本そのものであって、それをぴかりら周囲が支えて支えてよかった探しをしてる。周囲を固めるキャラは経験者という設定だからそりゃそうなんだが、てこ一人が一人前でないという設定。最終回でようやってスタートラインに立てましたよって何それといった感じ。天野こずえの作家性をアニメで表現するのはかなりハードルが高いという話を前にしたが、そんなこと人に言われるまでもなく製作スタッフはわかりすぎるほどわかっているだろう。サトジュンほどの人物であればなおさら。ならば作家性の表現を捨てゝまでこの作品を選択してアニメ化した意図は何?というもので、ダイヴィングの楽しさとか、ともすれば孤立化しがちな現代の人間関係で、つながりを取り戻すために何が必要かというのが今回のこのアニメで本当に問われていたの?と考えると、あぁなるほどぐらいには思う。
 数ヶ月ぐらい前にラヂオで森永卓郎が言ってたが、昨今の就職状況の改善で割と大学新卒が就職に関して傲慢になっているとか。原作が持っているメッセーヂ性がそれなりにあると考えても、サトジュンにとってはそれを伝えるべき若者はいないって判断していてもおかしくないわな。