リトルウィッチアカデミア 第7話

 相変わらずはちゃめちゃな世界観。
 アッコが試験勉強をするの巻。書き始めてちょっと思ったのだが、そういや魔法って学校で教えるものなのか?。術が体系的な知識を必要とするのだろうなとは思われるので、それは多分にマスプロ教育と親和性は悪くないとは思うのだが、自分的な理解では魔法は“秘術”ってイメーヂだったので、今の今まで学校教育で施されている魔法というのに違和感を覚えていないのに改めて驚いた次第。まぁ某人気魔法小説の影響が大きいんだろうとは思うけど。
 魔法っていったって、西欧中世ではこう一般人には馴染みのない医術だとかそういうのに秀でゝいるってのを異能と称したのだろうから、それは突き詰めれば秘術というよりは、一般人が理解できないからそれを魔法と言ってたわけで、やってることは修道院の僧侶と変わりがないだろうから、知識を持っていた宗教人がキリストの秘蹟と称して医術などを施していたのと同じものだろうとは思う。が、魔女宅のように、魔女の家系だとか、家系であっても先天的な能力の有無とかを想像してしまう。いやまぁそれだって、現代でいうところの体を動かすのが好きで頭を働かせるのは苦手というのとそれほど変わりがないような気はするが。
 で、アッコはアーシュラの言うとおり、別に魔法が使えないわけでも、爆発を起こしたところからすると魔力が弱いわけでもなくって、そのへん今のところ、アッコに先天的能力があったと見るべきなのか、それとも魔法は努力でいくらでも能力向上が可能なものであって、アッコは成長途中と見るべきなのかどうにも自分的な立ち位置がはっきりしない。他のキャラに小さいころから慣れ親しんでいたという発言をさせているので習得可能と見るべきなんだろうが。
 魚類に魔法が使えるって設定もぶっとんでるなと思ったのだが、これは所謂被差別民のメタファーなんだろうか?、それにしてはなんかいやにそれに対するエクスキューズが少ないなぁという風には思っていた。これが欧米の作品だと、それは他民族をあらわすものだったりするのだが、日本の作品だし、それほどこの作品が欧米に対するマーケティングを考えてるのかなと思うと、そこまで深くは考えてないようにも思える。魚だろうと卓越した魔法を使えるのであればそれは(今回の場合教師として)尊敬に値するとか、だから、魔法学校の生徒も他人をその人の出自云々で差別するのではなく、能力で判断しているようになっているとか考えてみたのだが、なんかそれも考えすぎのような気がする。そういう要素が全く考慮に入れられてないというつもりもないんだけど。
 今回ちょっと面白いなと思ったのが、アッコが魚(半漁人)になることで魚と喋ることができるようになり、人間に戻っても魚の言うことが理解できるようになっているというところ。結局勉強に対する態度の持ち方の一つとしてなるほどゝ思った次第。これ、「わかりやすい」教え方というのが、実はその場でわかった気にさせるだけで、本当の理解や習熟には実はダイレクトに繋がらないってことなんだろうね。逆にわかりやすく説明されることに慣れてしまうと益々知識の獲得という点においては弊害が却って大きくなるとかそんなの。もうかなり忘れてしまっているが、中国に旅行したときには、自分が意志をこういう風に通じさせたいと思っていろいろ試行錯誤を繰り返して身に付けた中国語は、それ自体は単純なものでありながら割と通用するようになったのだが、逆に中国で出会った欧米人と英語で話しをしようとしたらやたら躓いたって経験があるので、割と実感としてわかるというか。中国語なんて旅行するまで勉強なんてものはしなかったし、逆に英語なんて学校教育で何年も勉強してるというのにねぇ。
 あと、なんだろ、年をとったからこそわかるってのがあるんだろうねぇといったこと。アッコが困った魚を助けるくだりは、もうテンプレだろとしか当初は思わなかったのだが、こうなんていうのか、人間それなりに長く生きていると「人というものは大抵困っている人間を助けたりはしないものだ」ということを身につまされるほど経験してしまうわけで、そうなるとアッコの行動は頭ではキレイ事だとわかっていても、だからこそ尊いものなんだなというのも理解してしまうわけで、そのへん自分の用事とくっつけて、なんのかんの人助けをする姿は恒久的なテーマになるんだなとぼんやり考えてた。いやまぁアッコだって食事として魚を食ってるだろうし、それに感情移入させるのも大概強引だなぁと思うし、そのエクスキューズとして禁漁区だからというのも苦しいなとは思ったのだが。