ViVid Strike! 第12話

 前回の試合は関係者に配信って、プライベート要素が強いのでちょっとマズいのでは?。
 やっぱエピローグ要素が強かったな。あとフーカとアインハルトの試合は尺を取って描くのかと思ってた。いちおう終盤の展開でリンネがフーカに勝ってアインハルトゝ対戦というのだけはやってはいけないことだと思っていたので、それも含めて構成はさすがにNG要素は排除されていた模様。
 うーん、つくづく惜しいというか、といっても最終話を視聴しても前回までを全体的に見た印象は、やはり都築真紀節的要素のよさが前半の雑なのを上回ることはないという結論が覆ることはないのだけども、おそらく企画段階での志を考えるとそれは方向性として間違ってはないのかなとは思う。
 一つ、考えられるテーマとして、昨今流行の子供の貧困というのがあって、それはフーカとリンネの孤児設定。つくづくズるいと思うのは、この孤児という設定であって、普通子供の貧困というと親のことまで含めるべき。しかし親という要素を考えると、現実問題親に重大な欠陥があることを描かなくてはいけないので、それを避けるために親を排除した「孤児」にしたんだろう。で、その貧困状態の子供に何が必要なのかというのは十分な教育と物質的・精神的な支援というのが既に与えられているという状態で提示されている。つまりフーカとリンネは孤児院で教育がなされていてそれが礼儀正しいという状態に表れている。でもって十分な物質的・精神的な支援は中島ジムに引き取られてからのフーカの待遇がそれで、これは貧困状態の子供を救うためにはこれだけの支援が必要なんですよという提示に他ならない。正直個人的にはこういう主張は非現実的でキレイ事だよと思うのだが、どっかのことわざに、歪んだ枝をまっすぐにするには反対方向に思いっきり曲げないといけないってのがあって、主張として間違っているわけでもない。
 もう一つがいじめであって、これはちょっと残念。いじめということに対して学校が対処できていないということや、いじめる側がどういう追い討ちをかけるのかだとか、いろいろ現実的な要素を取り入れているんだけど、スタッフは作品中それはリンネを格闘技に追いやる動機付けぐらいにしか使っておらず、基本的に深入りするつもりがない。まぁ中途半端な解決方法や主張をしたところで、それは現実味がないのだからヘンに立ち入らないというのは正しい姿勢ではあるのだが、やっぱ今最大のホットイシューだと思うので、視聴者はなんらかのメッセーヂを期待してしまう。それが中盤からほったらかしになるのだから、もう肩透かし感が強くてポカーンといったところ。勝手に期待スンナと言われたらそうなんだけどな。
 あと教育方法の対比があって、これはリンネが受けるスパルタ式と、フーカが受ける納得のいく説明付きというものがある。どちらも体罰は排除されていて、いわゆる昨今流行の「叱らない教育」というのが強く意識されている。これも個人的にはキレイ事であってちょっとウソ臭いなぁとも感じるんだけど、あながちウソでもなくって、しかしこれはリンネだろうとフーカだろうとコーチングを受ける側が「理解力がある素直な受け手」であることが必須条件であって、これがないと成立しない。まぁ一般的に言われる、コーチと選手の信頼関係が重要なのだが、大体世間的にはコーチが選手から信頼されることばかりが昨今は言われていて、選手がコーチに信頼されるというのが無視されがち。で、普通は最初っから両方成立してるってことはありえないわけで、その辺なんとも難しいところ。この作品だとやはり世間に迎合していて、やたらジルが反省する姿を見せていてなんだかなぁと思う。
 あとは自分が何度も述べたとおり、格闘技に対する執着かな。これは格闘技の魅力というのはさんざん述べてきたからそれは置いておくとしても、それ以外に現代が近代工業化されていわゆる腕力というものが社会生活に決して直接必要とされる時代でなくなっており、それに対する捉えなおしという側面が提示されていると思う。つまり、現代社会の多くの問題が、人間の野性々を無視して社会を再構成してきたことに原因がありはしないかという視点があるのではないかという気はする。うーん、難しいところだが、例えば教育という点においては例えば、動物の子供はじゃれあって互いに甘噛みしたりすることで、狩りの仕方だけでなく、どれだけの強さで噛めば相手は痛がるかなどの加減を学習することにもなる。子供の甘噛みがエスカレートして子供ではコントロールできない状態になればより大きな力を持つ母親が力ずくで止めるわけだ。動物の場合は大人になれば各々なわばりを持ち兄弟同士もばらばらになるから子供のうちに学習しておかなくてはならない。そういう機能を昔は地域のガキ大将グループが自律的に持っていたわけだが、既にそういう地域はほとんどなくなっているだろうし、都市部では保育園に通うのが普通になっており、仮にそうでなくても公園デヴューということであれば母親の管理の下で交流するのが普通だろう。それにそういう状態になる過程において子供が子供に怪我させるという事態が忌避されてガキ大将グループが自然発生する環境が失われている。当然ガキ大将グループが背負っていた役割を保育園幼稚園が背負えるはずもなく、子供どうしのトラブルが発生しても大人の側が筋力頼みの仲裁をすることが事実上禁止されている状態。今の教育の流行は丁寧に説得すればうまくいくという風潮だが、痛みという実感を欠いた経験無視のそんな頭でっかちの教育が果たしてうまくいくのだろうか?というのが本作のかなり重要なテーマのように思える。そしてそういう経験は幼少時のほうがよいからキャラはロリ、コントロールされた暴力を扱うのであれば格闘技が適切ということで、企画にGOサインが出たのだと思う。但し、やはりコーチのあり方から本作の描写は納得のいく説明で問題の解決は可能というスタンスであって、ちょっと判断は難しい。個人的には物心のつかない年齢では説得だけの教育には限界と弊害があって、自律的に問題を解決させる場が欠けていることにかなり根源的な問題があるというふうに感じている。が、そういう場を今から用意できるかというと、それは不可能レヴェルといってよいほど実現できないので、だからこそ本作が出した結論が格闘技ジムのように暴力性をコントロールできる場での教育なのかなと思っている。
 と、まぁ個人的には本作はいちおう社会問題に対しての一定のメッセーヂを込めていると判断しており、提示された結論はともかく着眼点は大いに評価しているので、本作がまとっているいろいろなマイナス要素が凄い残念というか、もったいないと感じている。どう考えてもアニメに興味のない一般人、しかも一歩踏み込んで言えばなのはシリーズに興味がない人にはこの作品は気持ち悪いと感じるだろう。しかもテキストの導入部はもうドン臭いというしかない。別にテキストが昔ながらのフォーマットであるからといっても他の作品も似たり寄ったりであって、なんというか中二病的世界観というか設定が結構台無しにしているような感じ。今や中二病はそれをネタにして笑いものにする扱いなので、時代感覚が古い。「ぼくのかんがえたさいきょうの」というイメーヂが強くて扱っているテーマからするともうちょっと獲得できる視聴者をわざわざ振り落としている感じ。
 あと、終盤の都築真紀節は諸刃の剣といったところ。彼のテキストの力は確かに結構大きくて、序盤のグダグダを吹き飛ばす効果を実感したが、ならその序盤は切り落としても構わないんジャンということにもなる。その力のあるポエム部分が物語全体からすると浮いてしまっていて、なんともしっくり混ざり合ってない。きっともっと都築真紀の好きなようにテキストを書かせたら一つの作品としてはまとまりのあるものになったのだろうけど、それは益々特定のアニオタにしか共感されないものになっていたであろうし、そもそもそういう企画は通らないだろう。新海誠が彼の思いのまゝに作品を作ればマニア受けしかせず、川村元気というプロデューサーの修正を受けて「君の名は」が大ヒットしたことを考えると、都築真紀もそういう世間受けするための女房役を見つけたほうがよいのではないだろうか。個人的にはそういう他人に修正をうけて完成度が高くなった作品を見るより、実は都築真紀の欲望ダヾ漏れの気色悪い世界観の作品のほうをより見たいとは思うが。