ViVid Strike! 第10話

 勢いはあるんだけどねぇ。
 なんかそれっぽく見えるような辻褄合わせになってはいるんだけど、リンネとしては別にフーカと語り合うために試合の申し出を受けたわけではないので、なんで急に痴話げんかになるの?といった印象。オモロイのはテキストがいろいろちぐはぐになっているにも関わらず、かなりの部分でこれやっちゃいけないってのを結構な割合で避けていること。
 その一つが安易に親友という単語を台詞に入れてないということ。特に現代では若者の付き合いは一昔前のおっさんより精神的依存性が薄いのにやたらつながりを重視するので、やたらトモダチであるとかを重視し、ぼっちであると認識されるのを忌避する傾向があると踏んでいるのだが、そこに安易に親友という言葉を使えば物語が途端に安っぽくなる。それを知ってるからこそ使ってないんだろうなと思う。
 もう一つはリンネのようにメンタル面でやられている人に対しての一番の治療?方法というのは、通りいっぺんの優しさだとか誰も文句のつけようもない説教で改心させることではなく、彼女と一緒に落ちるところまで落ちてくれる覚悟のある人間がそばにいること*1であり、少なくともフーカにはその覚悟があるという描写になっていること。
 そのへんちゃんと根幹はわかっているんだなぁとは思うんだけど、もう今までの仕込みがあまりに酷いんでそのよさを活かしきれてない。
 あ〜、そう考えてみるとなんか難しい話かもな。現代の若者が、ぼっちと看做されることは避けたいが、とはいえ別に人との深い関係を望んでいるわけでもないというのが正しい観測だと仮定すると、自分なんかのおっさん世代は上記のような都築真紀が提供する深い人間関係に共感もできるし、だからこそなのは第1期がウけたのが、それが理解できる最后の世代だったということなのかもなぁという気がしてきた。そうだとすると逆に都築真紀は今の若者世代になのは第1期のようなテキストは理解されないとわかった上でこの作品を作ったのかもという可能性が浮かび上がる。本当は伝えたい熱い関係性があっても、それをダイレクトに伝えようとすれば今ドキの若者から即座に拒否反応を示されるのがわかっているのだろう。でも彼としては伝えないわけにはいかないと考え、だからそれを明かすのはこのタイミングまで我慢してたとしか。
 しかしまぁそういう関係であることを匂わせながらちっとも孤児院時代のフーカとリンネの深い関係性を今まで隠して明かさなかったのだから、次あたりも絶叫ポエム随伴拳で語り合う展開かな。あれだけ仲がよいのだから、リンネとしては「自分だけがフーカを差し置いて裕福な家庭に引き取られたのだから、そこで幸せになるのが義務であって、不幸せであることをフーカに知られて気遣われるなんてそれこそ自分を許せない」なんてのがまだ隠し玉として残されているわけで、なんだかなぁといったところ。まぁその予想が正しいか間違っているかはさておくにしても、後2話なわけで、そのへんあまりフーカとリンネの関係修復に他人が余計な介入をしそうにないというのが救いの一つかもなぁと思ってみたり。

*1:寄り添って理解するというのではない