甲鉄城のカバネリ 第5話

 おゝ、犬猫ネタだよ。
 なんつーか、またかよと思いつゝ見てたが、要するにこれは昨今の、日本で災害になったら避難所にも犬猫を連れて行くとか、犬猫の救助が美談になったりするということの延長の話なんだろうなとかポカーンと思っていた。自分が学齢期の頃よく言われたのは、災害に遭ったらとにもかくにも自分が助かるために余計なものをもたずに真っ先に逃げろであって、いくらそれまでの生活で潤いがあるといってもペット同伴なんてのは、それこそパニック映画での展開切り替え要因として犬猫が一緒に助けられるぐらいの他は一般的に否定される要素だった。今となっては犬猫を救出するのは避難所の生活に精神的に役に立つという側面を考慮してという風潮がなんとなく支持されるようになってきたからで、日本も豊かになったもんだなと思うのだがこれはこれでおかしい話で、犬猫の維持にコストがゝゝり、それはもちろん避難民の負担であるはずも無く、そういうのを日本全体のコストゝして算出してよいものかという観点もあれば、避難所でいつもと違う環境で不安になったペットが盛んにほえて避難所全体に迷惑をかけたりする例もあって、あゝ愚かだなという感慨が一層深くなる。で、なんでそういう側面がクローズアップされるのかというと、ペットを必要とするのは凡そ独居老人が日々の寂しさを紛らわせるためというのが思い浮かぶし、なんで独居老人がペットに頼るような状況になっているのかというと、独居老人の子孫が都市部に労働力として駆り出され、家族が同居するような環境に今日本がなっていないという状況であるということが挙げられる。都市部で労働力としてこき使われている子供たちがせめて労働に見合うだけの賃金を貰っていれば、地方の親を呼び寄せて同居するという選択肢もあるが、その余裕のある国民がどれだけいるか?というのは冷静に考えてみるとわかること。やれ今自民盗が家族の復権だとかを憲法改悪と併せて悪巧みしているが、結局その意図は年金を自民盗が食い潰してしまって老人の面倒を国がほっぽりだすということでしかなくって、しかし、これだけアベ政権になって貧乏人の暮らしが苦しくなっても相変わらずアベ政権を支持する愚民が多く、その大半はおそらくボケ老人どもであるということから考えると、家族の復権だとか言い出したら、まさに家族に見捨てられてさびしい思いをしているボケ老人こそが自民盗を支持するんだろうなという頭の痛い構造が容易く思い浮かぶ。
 さて、振り返って今回の話だと、別に犬猫は避難時に救われるべき存在か否かは問題にしておらず、無名の境遇と対比させるための仕掛けに過ぎない。いわばストーリーの都合上、リアリティがなくても無理矢理登場させられているわけで、あまりそのへんあげつらっても仕方がない。江戸時代がモデルであれば飢饉を体験した農民が犬猫を避難時につれてくるかどうかはまぁ冷静に考えてみればわかること。生贄と称して食い扶持を減らすため*1にわざわざ人間の中から選抜して殺すということをやってたわけだから、理屈で考えたらありえない。そこから逆説的にやはり江戸時代ライクでありながら、あの避難民はまさに現代日本の庶民のあり方そのものということがわかる。以前から述べているとおり、避難民はむしろ無名に助けてもらってなければ今頃その存在すらなかったということすらも想像できない痴れ者であって、Aパートで混乱を収めてもらうという描写をしてなおこれかよという流れだから、スタッフは十分に考えて話作りをしているとしか。
 蛇足ではあるが、避難時にとりあえず必要なもの以外はすべて諦めて命最優先ってのは満洲の記憶が強烈。ソ連軍に見つからないように泣き喚く赤子の首を母親が絞めたり、逃げるのに足手まといな子供を中国人に預けて残留孤児の問題が頻発した。況や犬猫をやってなもんだ。アレの問題点はまさに国が開拓民を積極的に犠牲にしたという悲劇がある。満洲の防衛を担当していた実質日本軍であるところの関東軍は、軍自身の退却を安全にするためにわざと開拓民にソ連侵攻の情報を知らせないで囮にしたという過去がある。特権階級が安全に逃げるためにはむしろ積極的に自国民を犠牲にするのがわが国の伝統。国民の敵は実は自国の政府ってのは今なお連綿と続いているのだが、それでも戦前の血統を色濃く受け継ぐ自民盗を支持する馬鹿な国民性をみるにつけ、日本の夜明けは決して訪れないという絶望だけは抱きしめておかないとさらに酷い目に遭うだろう。

*1:むしろ飢饉時には空腹を満たすために犬猫を喰ってる