Y!BBの接続障害で

 結構動画を見てた。あと、せっかくだからとコト天もやってた。


 動画は戦艦ポチョムキンチェブラーシカ、キッド、メトロポリスメトロポリスは二回目だったかな。チェブラーシカはともかく、あとの三本は名画と区分されるもので、これがネットで気軽に収集できるのはありがたい。ポチョムキンは合衆国の公的サイトから落としていたものだが、これが2GBもあって大変だったことを思い出す。
 いちおうドラマとしての出来はキッドがさすがといったところ。ワイヤーアクションも取り入れられていてビックリ。白黒サイレントだから、演技過多なのはそれにあわせてといったところだろう。チャップリンはともかく、孤児院に連れて行かれる場面で子役がトラックの荷台で悲しむ演技は迫真で、これが百年も前のものだというのが信じられないほど。
 ポチョムキンメトロポリスは割と稚拙な演技が多いのだが、問題意識は現在の映画とは比べ物にならないほど熱気があった。逆に現代の映画人とやらは技術がこれだけ発展していてもそもそも何のために映画を作ってんの?と疑問を抱くほど。映画が担っている役割が百年前とは違ってはいるのだが、昔は観客に訴えかけたり迫ったりするものであるというのがあきらかにわかる。今だと結局のところ自己表現でしかないのかねえ。まぁ一歩間違えばポチョムキンなんて扇動映画でしかないのだが。メトロポリスは二回目で自分も割と冷静に見えてきたのか、これ、明らかに大衆はバカなものという描き方をしてる。大都市が抱える矛盾や問題に切り込んでいて、それ自体はたいした問題意識であるんだけど、それを変革するのにいわゆるお行儀の良い指南書にはなってない。主人公は善人ではあるがミクロ視点しか持ち合わせておらず、大衆も扇動されて破壊活動に至るが、決して社会をよりよい方向に導く視点は持ち合わせてない。これだけの問題意識を持ち合わせた作品を作っていながら、結局のところNSDAPを支持して破滅の道を歩んだというのは、映画製作者は確かにドイツ民族の衆愚性を見極めていたということで言えば凄いことだし、これだけの警告をされていながら映画と同様の衆愚を発揮してしまったという点においてはドイツ人もたいしたこと無いなと思わされる。
 これはまぁなんというか、これだけ自民盗が日本を危険な方向に導いてきており、警告を発している人間は決して少なくないというのに、それでも自民盗に政権をとらせてしまうという意味では空恐ろしさすら感じる。歴史は繰り返すというのでは決して説明しきれないものがありそう。もし日本が先の大戦と同じ過ちを繰り返したらもう次はないというのがわかっていないのだろうかと思うのだが、都合が良いことに先の大戦で国を過たせた連中の子孫が権力の座に居座り続けているので、彼らが一族郎党死に絶えることでなんとかなりそうではある。


 コト天はずっと前に買っておいたもので、いつかやろうと思っていたのが今回の暇つぶしに。テキストを読んで選択肢でフラグ管理、あとスポーツを題材にしてるので育成もやらなきゃならないのだが、大会前に全員のステータスを上げきることが可能。だから結局のところやることは全部作業になる。いちおう最初は自力で、二回目は攻略を見てクリアしたら、残りのルートはもうめんどくさくてやってない。この種のゲームにつきものだが、他のルートを攻略するにも、一度クリアしたときに読んだテキストをもう一度眺めるかスキップするかしかないので、しんどいだけ。紙芝居ゲーでもよくできたものだったら、他のルートに分岐したら読み応えのあるテキストが新たに開くのでそれなりに楽しめるが、このゲームだともうほとんど結末だけしか違わないぐらいの差しかないのでモチベーションが上がらない。さすがにこの手のゲームが今となっては絶滅状態に近いぐらいになっているのは当然と思わされる。
 とはいえ、正ヒロインの湿っぽさとか、さすがにリアリティはないだろうが関係性を整理した上でのドラマ性はちゃんと考えて書かれてあるテキストのような気はするので、初回はそれなりに読ませてくれる。主人公の動機はいかにも不純なんだけど、そういう初期設定でないとそもそもエロの方向に話が向いていかないので、そのへんはむしろあるべき方向性だろう。
 おそろしいのは、今の同人絵師の画力のインフレ具合。このゲームは1999年に出たものだが、20年近く経つとこれだけ向上するのかと思わされる。おそらくこのゲームの絵一枚だったら、同人絵師は2〜3日でこれよりクォリティの高いものを作れるだろう。
 ちなみに、2Kディスプレイ環境だとXPでも上手く起動できなかった。いちおうインストールは出来るが全画面起動するとエラーを吐いてうんともすんとも言わなくなる。ウィンドウモードで起動するプログラムを噛ませると動きはするが、画面切り替えでもたつくし画面も乱れる。Win7環境だとVer.チェックをしてインストールできないが、フォルダを作ってコピーするとウィンドウモードで起動できるようにはなる。ちなみにどちらも現物CDがないと上手く動かない。ISOイメージにして仮想ドライヴにという手法ではムリだった。現物CDはプログラム&オーディオトラック混合だし、CDにはデータ記録領域の内側にバーコードが掘られていて、おそらくこれが不正コピー防止として働いている模様。
 結局ピンパイがエロゲ製作から一切手を引いてアニメに一本化したというのは、こういう形でのゲームの将来性が無いことを予測したか痛感したかであって、それは確かにゲームをプレイしてみてよくわかった。結局視聴者(読者)に選択肢があったとしても、よく練りこまれたメインルートが一本あったら十分なんだろう。それの劣化コピーかそれより劣る他のルートがおまけについていたとしても、それをプレーヤーとしてわざわざ掘る手間はめんどくさい。選択肢をプレーヤーに選ばせるという行為も、完成されたテキストからの逸脱を招くだけで無駄な手間をかけている以上の意味はない。むしろテキストが完成されていればいるほど、プレーヤーの選択に任されるという工程が挟まるとテンポが悪くなったりするので、わざわざ間違った楽しみ方をさせているとすらいえる。ゲームがよくできていればそれも気にならないレヴェルまで仕上げることは可能だろうが、結局のところそれだって同じ世界観を持つ別の物語を無理矢理組み合わせたというだけで、小説で言えばアナザーストーリーかスピンアウトものを用意したらよいだけのこと。どうせプレーヤーの選択肢の数だけ完成されたエンディングを用意できないのだから(バッドエンド、それにてゲームを強制終了させる)、それならテキストを作成したライターの最高の解答を一つストレスなく読めばよいというだけのこと。
 こういう複数ヒロイン攻略系ゲームが出てきた当初は、自分も多様性をこういう形で表現できるようになったのかと半ば好意的に受け止めていたのだが、業界の衰退具合をみるにつけなかなか上手くいかんもんだなぁと思った次第。インタラクティブ性とかいったって、サブルートもテキスト製作者によってあらかじめ用意されたものでしかなくって、それだってフラグ管理によって一意的に正解が設定されているものだ。結局それは毎年のファッションが服飾や繊維業界によってあらかじめ設定されて流行が作られているのと変わりがなくって、プレーヤーは選択肢に正解して如何に設定された答えに近づくか?ということでしかない。
 コト天をプレイしてみて逆にテキストには惹かれる部分があったので、いっそのことエロ要素を抜いて渡辺明夫イラストのラノベにしていたら上質なものに仕上がったろうになぁと思う次第。が、題材がバレーだしヒットする要素はほとんどないかな。