フラクタル 第11話

 結局何がどのようにフラクタルだったのか?。
 フラクタルシステムが崩壊して終わるのか?と思ったら、そうじゃなくってビックリ。まぁよく考えたらこの世界観は現代社会のメタファーではあるのだろうから、「問題は依然解決されないまゝ現状は続く」という形になっていても不思議はない。政権交代しても現状は変わりませんでした…なんて解釈も可能なんだろうけど、そういう政治色はあまり感じられなかったかな。が、ロスミレは僧院を破壊してフラクタルシステムの再起動を不可能にしたというワケで、勝負で言ったら痛み分けってとこなんだろうか?。結果的に死んでしまったが、スンダとディアスはリーダーとして非常に格好が良かったなぁ。よくよく振り返ってみるとあゝいう上司は自分が新卒の時に一部居ただけで、その後お目にかゝっていない。まったくもってうらやましい限り。
 しかしアレだな、神から肉体と魂を分離して鍵を作ったってのはよくわからんな。そしてそのフリュネとネッサが組み合わさることによってフラクタルシステムが再起動するってのもなんのメタファーなのかよーわからん。普通、魂と肉体のバランスの取れた状態が、正常な人間という形をとると思う。が、魂というか精神的にはロスミレの思想がそれに近いような気がするし、肉体(的享楽を追い求めているの)はフラクタルシステムのような気がしているので、バランスの欠けたフラクタルシステムを維持するために再起動するための儀式があゝいう形をとるのはなんか違うような気がしないでもない。たゞ、結末としてフラクタルシステムは維持が不可能になったわけであり、あの世界の人間たちは最終的にはロスミレの生活に歩み寄らざるを得ないワケで、それは世界が正常な状態に戻るってことでないんかい?ってことにはなってる。しかし、それは「資源が枯渇して先進国並みの生活水準が保てなくなりました」ってのと違わないわけで、込み入った話にしている割にはたいしたことを言ってないってことにはならんのかな?。
 鍵の性質から言うと、最后フリュネの人格が消えていたのは納得で、クレインが女として大好きだったフリュネが死に*1、娘というか妹のように好きだったネッサが生き残ったという形も悲劇的で涙を誘う。

 さあてと、総論としてはなんか上記で言ったような気もするが、先進国病を戯画的に表現した作品といえるのかな?。技術・システムに依存した人間と、主体性のある人間の対比ってのは別に目新しくもなく、主張としてヒネたものも感じられなかった。ラピュタに似た作品ともいえるし、ラピュタ程度に面白い作品だと思ったよ。まぁ萌え表現を使ってるから、ヲタク寄りの作品だとは思うが。クレイン自身が積極性に乏しいキャラだってのはわかるが、その分をスンダが補っていたような気はするが。なんかあまりアニメ感想サイト界隈では評価の低い作品だったようなのだが、自分的に楽しませて貰ったし、何をそう毛嫌いするのかわからんな。虚実の主張もそんなにこねくりまわしてないじゃんかと。わかりにくいわけでもないし。フリュネとネッサにヒロインとしての魅力が今一欠けるっていうんならそれはそうだろうなと思うし、インパクトやサプライズがそうあるわけでもない。ヲタクへの蔑視とかリア充の称揚ってのがあったんかね?。まぁフツーにバランスの取れた作品じゃなかったかと。おもろ+。

*1:いや、戻ってきてクレインに返事をしていたが