魔法少女まどか★マギカ 第12話

 んな、アホな。
 結論は、構造を変えることだった。まぁハッピーエンドにするためにはそうするしかないのではあるが、そう願うことで叶うってのがね〜。契約システムを上手く利用してるわな。そうそう都合よいタイミングってのが現実にはありえないから冒頭の一行ツッコミになるわけなんだが、しかし、物語上うまく練られてはいる。
 まどかの役割は思いつくところ2つなんだが、それが今話のクライマックスで述べられたもの、1つは構造の変革者、もう1つはリーダーとしての役割だ。
 構造の変革者ということで言えば、ちょうどセキレイにあったように、セキレイ計画というものがお互いがいがみ合う構造*1になっていて、そういうものを主人公の皆人がブチ壊すという役割を期待されている。特にこの作品では魔法少女が社会のために尽くしても、それがまわりまわって魔法少女にしっぺ返しをしてしまうという、「情けは人の為ならず」の本義の逆ヴァージョンになっていた。なんというか魔法少女は社会に恩を仇で返されるというか、正直者が確実にバカを見るというか。そしてこのような事例が現代の日本では非常に多く見受けられる。
 で、日本では多分に特に長らく続いた自民盗政権による、「モラルとか社会規範などの社会的資本を破壊することによって利権を貪る」ということに尽きる。特権階級にとっては、本来彼らがやるべき社会の維持を末端の構成員にやらせ、特権階級はいゝトコ取り、尻拭いは末端の構成員に押し付け…というのを繰返してきた。そうすることで、末端ではいがみあうという風潮がずっと続いてきたのだ。社会に免疫の無い少年少女がいざ現実に向き合った時、社会がそうなってしまっていれば喰い物にされるだけだ。そして子鼠、ケケ中がなんと言ったか?。…「自己責任」だ。これでは社会に尽くそうとした若者は報われない。
 そしてそういう社会になったのも、それこそ戦後一貫して老害と呼ばれる特権階級の積み重ねによってゞある。だからこそ、自分的には最后のメッセージ、「誰かゞ守ってくれている」、「一人ではない」というメッセージで解決するとも思わない。かといって、あきらめてしまえばそこで終了である。この物語の面白いところは、まどかを「特異点」と設定し、世界は変わりうるという説得を今までこつこつと積み上げてきたことだ。それらがこの最終回で一気につながったところなどは胸がすく思いがした。
 もう1つのリーダーとしての役割などは、ドルアーガの塔A&SofUでも述べたとおり、リーダー自身の願いは無いという特徴をもっていた。最初目的無しに人のために役に立ちたいというまどかのあやふやさは強さにも弱さにもなりうると思ったのだが、構造的に見れば、リーダー配下の現場の願いを支えるという役割になっていた。もしリーダーが自分の願いを具体的に持ってしまえば、リーダーはリーダー自身の願いをかなえることに注力してしまい、現場はそのための捨石となる場合が多い。そうじゃなくって、社会をまとめるリーダーは、自分自身の願いを持ってはならず、社会を支える…つまり現場を支えることに力を尽くさねばならないということになる。これも現代日本の特権階級がまさにそういう観点を全く持っていないことに当たる。
 というわけで、上記2点でまとめては見たものゝ、面白いのは視点が結構たくさん用意されているんだよな。優れたテキストは読者のもつ多様な解釈が何通りも成り立つのだが、それに当たるんだろうか。愛だの勇気だのが世界を救ったと言っても間違いじゃないし、冷静に現実と切り結んで守るべきものを守るという態度が世界を救ったと言っても良い。なにより、友人や家族に愛されて育ったまどかゞ、だからこそゝれら一切合財を含む世界を守りたいと願う気持ちが世界を救うきっかけとなったという形をとっていたのが涙を誘う。
 結局終わってみれば、やはりかつて魔法少女モノを見て育った、今社会人として世界と斬り結ぶ世代に対する応援歌ということで間違いはなかったようだ。そういう観点で見ると、やれエントロピーだのエネルギーだのといったこむずかしい設定はほんの小道具でしかないことがわかる。単純な話、人が生きていく上で、他人に背中を撃たれるより、支えてもらう…というか共に戦ってくれるってほうがはるかに生きやすいよねということか。
 うーん、評価に迷うなぁ。おもろ+は間違いないんだけど、名作に当たるかどうか判断がつかない。もともと魔法少女をテーマにした段階で、バッサリ特定の視聴者層を切っちゃっていると思うので、そういう意味では初めから一般人全体が対象ではないんだろう。とはいえ、読売に最終回の一面全面広告が掲載されるぐらいだから、それまでの人気の高まりもあったんだろうけど、決して全員を切っちゃっているわけでもないのかなと思わなくも無い。前回のヤクザ映画の例で言えば、あれは大人向き…というかお子様お断り…であろうけど、最終回で救いのある結末にしたのでお子ちゃま向きになっちゃったのかなと思わなくも無い。が、ヤクザ映画の流行った時期というのは日本がまだ経済的に上向きになるという展望があったわけで、そういう時に救いのない話というのは、まだ現実に望みが持てるだけ悲劇として楽しむ余裕がある。だが、現代のように生活が以後苦しくなるのが予測できるときに、救いのない話をするのが大人の態度か?と言われると、わざわざ現実もフィクションも両方絶望するようなこともあるまいとは思ってしまう。が、可能性の無い希望は罪深かったりするしなぁ。なんとも。まぁどっちにせよ、毎回サプライズがあり、次回が楽しみでしかたがないといった作品であることは確か。

*1:結局この作品では互いにいがみ合う構造だけが解消された。敵はまだまだたくさんいるが、少なくともかつて仲間であったもの同士が戦うということだけは回避されている。