オオカミさんと七人の仲間たち 第11話

 やっぱ陵辱展開は避けるよなぁ。
 まぁそれが見たいわけでもないし。で、一気に解決編。猫宮が亮士に稽古をつけた理由が奮っていて、で、第6話にちゃんとその仕込みがなされていた。ある意味ビックリ。でも、結局のところ、御伽銀行の他の面々の顛末や殺陣がとってつけたようになっていて、もう亮士と涼子の絆を深めるための、たゞの修飾ってことが丸わかり。カップリングの強調と、いや、おつうと魔女のカップリングってどーなの?みたいなところはあるが、ちょっとした小ネタにニヤリとさせられたものゝ、本筋は一つだけだよなと。
 で、その本筋は確かに泣かされる。この作品って主人公は涼子なの?と考えたときに、いや、主人公の要素が無いわけではないが、基本ヒロインだし、かといって亮士が主人公か?と言われると、それも大いに違う。今振り返ると、涼子と林檎*1が軸になってはいるが、主人公と断定するには弱い。で、基本カップリングなんだよな。ということは誰が主人公で、だれが主人公の添え物(昔話的にいえば、たとえばヒロインは主人公に対するご褒美として設定されていることが多い)かというのではなく、カップルという構造こそが中心であるんだろう。だからこそ、涼子が一人で強くなる(=涼子が主人公である)というのではなく、また、涼子は亮士に守られるだけの存在というのでもなく、二人で強くなるという主題が提示されるのだ。これは面白い。例えば亭主関白で夫唱婦随が昔の理想だったワケだが、それにたいする抗議として男女共同参画社会だの、夫婦は誰が主で誰が従でというのではなく、お互い対等な「パートナー」だというのが'80年代に台頭してくるワケだ。で、また尻に敷かれる亭主というのも昔からあって、この作品のキャラ構成というのはそれに当たる。が、亮士は涼子の言いなりになっているわけではない。対等だとか尊敬だと言ってしまえばお互い越えづらい距離感が現れてしまうのだが、そういうのを感じさせない二人の自然な…適度な緊張感のある…姿が提示されていると思われるのだがどうか?。
 次回、バカ話をやって最終回っぽい。

*1:オモロイのは林檎に男があてがわれていないこと。というか、今まで涼子と林檎のカップリングになっていた。まぁいづれ林檎にもあてがわれる(もしくはあてがわれるべき存在でありながらなかなか王子さまが現れない)であろうけど。