そらのおとしものf 第8話

 全編シリアスモード。
 いや、なんだかね。大体ポイントは一回視聴するだけでわかるぐらいだったから、それほど難しい回でもなかったし、刀語も2話続けて見てたから結構疲れているとも思っていたんだけどね、二度見しちゃいましたよ。割とシリアス方面の仕込みがなされていたんだけど、いや、こう1話丸々真面目に論を展開されて衝撃もひとしお。サブタイコールが整っていたので「やる気だな」とも思ったし、今回コレだけ盛り上がったら次回あたり(サブタイを見る限り)たぶんおちゃらけモードなんだろうけど、これは迫力があったねぇ。
 今回のポイントは、アストレアが鎖を自分で千切ること、そしてイカロス(アストレアもそうだが)に愛が何かわからないと言わせること、この2点に尽きると思う。構造的に面白いのは前者は抽象化であること、すなわち自決(自己決定のほう。民族自決とかそんなの)という風にまとめることができるのに対し、後者は抽象化の放棄になっていること。回想シーンで具体例を示しており、視聴者に対して想起させて説得しているワケだが、じゃぁ具体化っていうのかと言われたら、そうではない。が、頑なに抽象化は拒絶しているワケだ。まぁこう言い切ってしまうのもなんだが、「愛とは何かを言葉で表現することは不可能」であることを視聴者に理解させているというか。が、例えば智樹とそはらは親ポジションであると述べたとおり、決して特定の人間だけが壁を乗り越えないと理解できない性質のものではなくって、万人がわかり得る性質のものであり、そしてそれをこの作品でも受け取ることができるでショって性格のものだ。
 さて、前期あたりからも思っていたことなんだが、この作品ってメインキャラの混淆が上手いよな。前期ですらメインヒロインのイカロスとサブヒロインであるハズのニンフのどちらがメインなのかわかんなくなっていて、じゃぁそれで混乱していたか?というと、全然そんな事はなかった。で、例えばイカロス・ニンフがヒロインというポジションだとして、果たして主人公は智樹なのか?と言われたら、いや、イカロスとニンフの個々の物語に智樹はむしろ狂言回しとしての役割を演じており、むしろ主人公・ヒーローはイカロスじゃね?と見なすことも出来る。そして昨今のアニメに見られる通り、「本当は主人公を男にしたいんだけど、視聴者を惹きつけられないから女を主人公にする」というのともちょっと違う。イカロスは恋する乙女の部分を差っぴいても、男がなるべきヒーローの代替物ではない。
 で、今期、アストレアが絡んできて、じゃぁメインキャラとしてイカロス・ニンフの物語はやはり厳然としてあって、だからアストレアがぽっと出の引き立て役か?と言われると、やはりきちんとスポットがあたっており、じゃぁ新登場のアストレアに焦点が向けられているからイカロス・ニンフがかすんでいるかといわれると、全くそんな事はない。で、前期のように、前話・今話とニンフにスポットがあたっていて、まるで彼女が主人公のような話作りなのだが、いや、やっぱりイカロスが中心の物語にもちゃんとなっている。で、3人のヒロインに焦点があたって混乱しているのか?と言われるとそんなことはない。で、智樹は3人のヒロインが主人公の物語という視点で見れば確かに狂言回しの役回りなのだが、主人公でないのか?と言われると、そうでもなかったりする。まぁさすがにそはら・守形・五月田根は脇役ポジションではあるわな。
 そんでもって、こりゃヒロイン3人を巡る、ギャルゲーという構造を持ち(しかもハーレム要素の)ながら、なんつーかね、そういうのをあまり感じさせない雰囲気があるわな。もちろん、今まで何度も指摘してきた通り、智樹がスケベであっても、エンジェロイド達には保護者的かつ平等に接しているって部分もあるのだが、テキストとしてよくできている部分があるのかなと。視聴者・読者としては結局一つの事象を必ず時間の経過を順に追いながら蓄積するというシーケンシャルな読み解き方をするワケだ。
 ギャルゲーというかエロゲの複数ヒロイン攻略の黎明期あたりだと、大体メインルートが遭って、それはシーケンシャルに追わなくちゃならなかった。で、選択肢として他のルートが存在していたという形を取っていた。または、物語の表面があり、もちろんそれはシーケンシャルに追わなくちゃならないワケだが、視点を替えて裏面を眺めるというものであったわけだ。昔のテレビに裏番組を小さな窓で表示するってギミックがあったが、特に文脈を精緻に行うテキストには、そういうパラレル進行な物語はほとんど見られない。大体一つの物語をやはりシーケンシャルに読者に追っかけさせるか、一つ、もしくは複数の物語を切り貼りして、やはり読者に提示する時にはシーケンシャルなものとする。まぁ大体同人誌のオーソドックスな形態、「自分だったらこうするのに」という、アナザーストーリーが一般的だよね。
 が、これは分岐や視点変更によるアナザーストーリーではない。で、やはり視聴者はシーケンシャルにしかテキストを追っかけられないから、イカロス・ニンフ・アストレアの物語をぶつ切りにして切り貼りして提示しているワケだが、これがまったく上手いというしかない。いくら視聴者が同時に複数の事象を追っかけられないからといって、パラレルな事象を扱わないわけにはいかないわけだが、できるだけ齟齬が無いよう、そして切り貼りの都合上効果的であればむしろ時間的間隔を空けて構成するなどの工夫が感じとれる。
 なんつーか、東浩紀が言うところの「データベース型消費」ってのとはちょっと違う作品ではあるわけだ。それは何分にエンジェロイド達がその置かれた境遇によって共通の問題を抱えており、それが作品全体のキャラでいろいろな要素で繋がっており、決して“他人”との新たな関係構築に終始しないせいであろうと思われる。その繋がっている“要素”の部分に人間的に不変なものが扱われているせいで、一つの大きな物語として成立しているのかも。智樹は智樹であり、イカロス・ニンフ・アストレアやその他のキャラはそれぞれ個性をもっているわけで、視聴者としてはもちろんそれぞれの嗜好に応じてデータベース型消費をやっちゃってもいゝワケだ。が、特定の誰かを選択することが、その他を切り捨てることにはなっていない。扱っている題材が題材なだけに品がない作品ではあるのだが、主張自体は下品なわけでなく、そしてテキストとして結構レヴェルの高い表現技法を駆使しているんじゃないかと思わせる何かゞ感じられる。