BLACK CAT 第8話「旅する猫」

 これはどうしたことか。かなりいい出来ではないですか。
 トレイン@近藤隆の演技が引っかかるんですが、声優の良し悪しなんて関係ないほど物語の完成度が高い。まずスヴェン組での各キャラクターの役割分担が適切であること、ミッション解決型のエピソードとしてみても設定に寄りかかりすぎることもなく完結していること、シリアスとギャグのバランスが優れていることと今までの出来から言うと信じられないぐらいです。
 最近「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)を読了したので、自由についてこの作品とどういう関連があったかについて触れてみたいと思います。というか、この本自体が何を言いたいのか私自身よく掴んでいない(一度流し読みしたぐらいのため)ので勘違いも大いにあろうかと。自由に関する新書をもう一冊読んではいるのですが、両書に共通していることがあっておもしろい。ひとつは自由が実現された状態が自然でありその理想型としてギリシアのポリスがあるが、アーレントが述べているとおり、そこでなされていた自由な議論というのは奴隷という不自由人に支えられた市民によって為されていたというきわめて不自然な状態なものであったということ。人間が自由に判断するといってもそいつを取り巻く諸々の影響を受けているので完全に自由な決断というものはありえないということ。世の中が多様化しているのでめいめいが好き勝手言っているとどうしても他人の自由を侵害することになるが、それらを回避するための正義感などの共通認識というものが現実的に不可能であるということでしょうか。
 そしてこの本では自由がもたらすものに「自己決定」というものがあるけど、それだって本当に自分が自由に選んだものかわからないよ〜実は自己決定をさせてもらっているつもりが相手の言いようにされている例もあるよ〜なんて事も触れながら、どういう自己決定が望ましいかについてドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域に関する権利」を引き合いに出します。それに関してはファンタジーさを感じており、けなしの一つでも入れておきたいのですが、長くなるので省略。むしろ望ましい自己決定、即ち主体的に選択をするというのはどういうことかについてザレツキーからの説明が的確なので引用。

 ザレツキーは筆者に対してこの問題を、「安楽死」をめぐる臨床的な問題に即して説明してくれた。安楽死するか否かを、「もっと生きたいか、もう死にたいか」という気分だけで決定する人は、現実にはほとんどいないという。周りの人たちが、自分が生き続けることについてどう考え、死ぬことについてどう考えるか、様々なやり取りを通して顔色をうかがい、自分の「状況」をそれなりに把握した上で、「自分が何を望んでいるのか」を知るに至る、というのである。「他者」を「鏡」にしないと、「自己」を最終的に知ることはできないのである。

 あぁ〜長かった。そしてトレイン君ですよ。今までクロノスの意思に忠実に従いどんな残酷なことにも手を染めてきた彼が、サヤという「他者」を「鏡」にしてそれまでの生き方を振り返りながらも「自分が何を望んでいるのか」を知るに至ったわけで、確かに引用部分の手順は踏まえてはおり*1ました。そうやって手に入れた自分の生き方なんですが、その結果を彼がどのように引き受けていくのか、そこに言及はされるのか心にはとどめておきたいと思ってはおります。
 次回は新しいキャラの紹介があるっぽい。せっかく今回安心して視聴できたのに来週は混乱するのか、それとも私の心配は杞憂に終わるのか。

*1:トレイン君の言う自由との整合性が弱い気がしますが