ラスダン#8

 トレント事件解決の巻。なんとどうやらベルト姫担当エピソードだったという。おそらくクライマックスでのベルト姫のセリフがこのエピソードの一番のテーマなんだろうが、これまた珍妙な構成。最初はベルト姫お休みかと思いきや途中から合流してくるから、まさか読者にはこれがベルト姫回だとは思わないし、主人公はホテルでバイトという話でしばらくはその描写が続くから一体何が言いたいのかわからない。トレント騒動もほのめかされるだけで進展はあまりないし、実際唐突に正体が明かされるからおふざけだろうとしか思えない。ベルト姫が合流してもいつものアレだろうと思うしかないし、他のキャラが合流してもやはりおふざけ展開。で、クライマックスになってようやくエピソードのミッションが明かされるという、原作ではどうなってるのかわかんないが、アニメを見た限りこの部分が集中的に描かれて、また元の雰囲気に戻るから、このメッセージも唐突に表れて一気に雰囲気に流してしまうから、シリアスなのはシリアスなんだけど、エピソード全体の雰囲気はいつもとそう変わらない感じ。かといってちゃんとその部分が全体を引き締める効果を発揮してるから、視聴者の意識は弛緩したままってこともない。視聴し終わってみたら、あーなかなかコントロールしてるんだなと思うんだが、物語としては起承転結をはっきりさせて、クライマックスはちゃんと劇的にカタルシスを持ってくるほうが感情を揺すぶれるのによーやるわって感じ。ネタはJRPGというラノベ直球要素を詰め込んでターゲット層の精神年齢低めなのに、構成は玄人志向なんだよな。主人公は形の上では主人公の要素を適当に詰め込みましたって感じで、役割的にはむしろデウスエクスマキナっぽいから、むしろ各エピソードの主人公の役割はヒロインズが務めてるという。
 ギャグが面白いわけでも、メッセージ性が突き抜けてるわけでもないし、基本キャラの馴れ合いを見せられてるんだが、だからといってつまらないわけでもないという。

ウマ娘2#8

 メジロマックイーンライスシャワーの対決。なるほど、勝っても負けてもなんらかの遺恨は残るというストーリーにしたのね。今回の話を視聴後、ライスシャワーの戦歴をWikiで確認してみたんだけど、ミホノブルボンの三連覇阻止の後のこのメジロマックイーンとの勝負、2番人気だったらしい。なのでやはり勝負後の扱いは個人的にはやはり引っかかる。ましてやメジロマックイーンミホノブルボン、もしくはトウカイテイオーの支えがあったという流れだし、でもそうしてるからにはやはり後味を悪くする意図があると考えるしかない。ただ、それが昨今のスポーツに対するなんらかの示唆があるという風にもあんまり見えない感じ。正直陸上競技であれば、別に予選準決決勝と勝ち抜け方式で各選手を競わせなくても、ちょうどある種のフィールド競技なんかのように全員個々に試技をして記録だけで勝敗を決してもよいわけなのだが、これは陸上競技ではなくあくまで競馬なので、タイムがよかろうと悪かろうと、出場選手どうしが同じ土俵で競い合って一番二番を決めるものなので、競技としては上下関係をそれぞれのレースで決めるのはもうそういう方式だからとしか言いようがない。だからコースレコードが出たからといって、それで称賛されるわけではないという今回の描写は正しいのだが、だが、競い合って結果が出てのあの扱いはやはり無いんじゃないの?という気はする。
 というわけで、記録ではなく勝つことがすべての世界で物語として、努力しました勝ちました、ハイそれでお仕舞よかったね…という単純な物語にしてないんだなというのは評価できるんだけど、でもその処理がどうにもうまくない感じ。勝負は時の運なんだから理不尽なこともあるし、結果としてきまずいというのは文学として当然なんだけど、それに至るまでの準備というか仕立てが稚拙と感じてしまったという話。実際の競走馬には交流なんてまるでなく、ほぼまったくの没交渉なのであって、でもフィクションとして交流を描くんだったらせめてその辺の処理はうまくやってくれという感じ。そのフィクションの部分に各ウマ娘が未熟だったからという要素は、実際のレースで馬の状態が悪くても騎手は最善を尽くして騎乗してたわけで、もちろん結果として馬の状態が悪くてもレースに向けて状態をよく保つよう努力していたわけで、それら現実のステークホルダーの努力を貶める行為に見えてしまうのでちょっと敬意が足りないというか。せっかく史実を持ってきてるんだからもうちょっとよい切り取り方をしてあげなよ…みたいな。
 というわけで、Wikiを覗いた副産物としてライスシャワーの運命も目にしてしまったのでどうにも。

裏ピク#2~#8

 もう1クールも中盤なので、空魚と鳥子のコンビが固定して裏世界に何度も行き、最新話では他人のトラブルシュートまで請け負ってた。
 正直まだまだ把握できてないのだが、主人公コンビが相談しに行く小桜というキャラが認知科学をやってるってことから、裏世界の性質をいろいろ妄想してみた。裏世界は異世界なのかもと最初は思っていたのだけども、比較的出入りが自由にできること、たしかに現世と裏世界に断絶はあるのだが割とシームレスにも見えることなので、こう、キャラたちの世界とは隔離された別世界という気がしない。
 ただ、裏世界は空魚が検索して知識として持っているネットロア、つまりネットに散在する都市伝説のあれこれが出てきたということから、裏世界は空魚たちが思い描いたものが具現化したものと考えられるのだが、それは認知という点から、今空魚たちがいる世界がその妄想に従って見え方が変わっているだけで、やはり実在してる世界の一部であるかもしれず、もしくは今いる世界とは別個に妄想が具現化したものかはどうにも判断がつかない。どっちにしろ空魚たちにはその裏世界が今いる世界とは別個のように見えていることは間違いない。裏世界もやはり空魚たちの想像の範疇を出てないわけで、そこに空魚たちと裏世界とは密接につながってると考えるしかない。ヘンな話、このへんのことはやはり原作を読むしかないのであって、アニメは原作を解釈して具体的な絵に起こしただけなので、本当に原作者の意図を忠実に解釈したかどうかも判断できない。どっちにしろ空魚があの青い目で見て、それに感化された鳥子の透明な手が、裏世界の事物に強烈に影響を及ぼすことからも、やはり裏世界が空魚たちを包含してるのではなくて、むしろ裏世界を空魚たちが包含してると考えるほうが個人的にはしっくりくる。空魚が視ると存在が固定化されるのも、最新話の空魚のセリフ、名前を与えてコントロールするってやつに近い。
 実は数週間ほど前に書店に行ったら、普段その店では入荷しないハズのSFマガジンが入荷してて、それでこの裏ピク特集がされてた。というより、百合特集の一部として紹介されてたというワケ。個人的にはSFに百合というのを主軸に据えるのはなんか違うと思うのだが、雑誌が原作者の同意も得ずにこの作品を百合に分類することはあり得ないので、まぁそういうことなのかと。で、空魚も鳥子も若い身空で壮絶な体験をしてきて、それぞれ社会的に孤立し、それが何のきっかけか巡り合って一緒に行動し、今や腐れ縁とでもいうべき間柄になっている。で、裏世界は空魚と鳥子を繋ぐ媒介となってるワケだ。そこまで言ってよいのか、まぁ断言するつもりもないのだが、数奇な運命で巡り合った二人が、今さらまた孤立したいと、意識下だろうと無意識下であろうと思っているはずがないので、裏世界はむしろお互いが離れたら困るような危機的な要素を空魚や鳥子が絶えず補完し続けていて、協力し合わないといけないような状況に仕向けてるとかそういう方向もアリだろうなという気がしてる。せっかく認知行動学を研究してる小桜というキャラを用意してるのに、世界観の説明や解釈をほぼさせてないのはフツーに考えて隠してるとしか言いようがないわな。
 なんか偶然気づいたのだが、この作品とラスダン、主人公とヒロインの組み合わせがどっちも花守&茅野。この作品は言うに及ばず、ラスダンもこねくり回した構成なのでさすがに若手にやらせるわけにはいかないんだろう。



 下世話な話だが、前回#7、1クールの折り返し地点で水着回だった。


 空魚は

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 ボーイショーツ型とショーパン型、


 鳥子は

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 片方はスカートが被さってるが基本的にビキニスタイル


 なのだが、これ、おそらく空魚は処理をしてないからビキニは穿けないってことなのだと思う。小桜もそうだが、空魚、めんどくさがりという設定で、普段着の下履きが
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 いわゆるスパッツなのもおそらくそれが理由かと。原作に服の描写があるのか、それともイラレに任せてるのかはわからんが、どっちにしろ原作もしくはアニメでもそういうところまで気を配るものなので、さすがに裏世界の設定をこれだけ説明なしの状態で続けているのはどうにも怪しいとしか。


 しかしなんだねぇ、SFといえば昔は近未来的な技術をネタに人間や社会を描くってものが多かったのに、今やテクノロジーより精神世界を描くものが多くなった印象。もうモノ的な先端技術は夢のあるものではなくなって、社会を進歩させないし、より人間の内面を掘り下げる方向に行ってるのかな。ヘンな話、文学から自然科学的要素を強めて分化したのに、今や自然科学的要素から脱却して人文科学的要素を取り入れてるという。…ってそれって純文学への回帰ってことになるのでは?と思ったり思わなかったり。いっそのこと精神科学って要素を挟まなくてダイレクトに文学として世に問うたらよいのでは?とか。