八男#6

 うーん、エリーゼたんマヂ聖女というしかない回。この話、主人公からだんだんフォーカスがエリーゼに移って、視聴者の視点がエリーゼとなるべく重なるような構成になってるわけだが、これがなかなか。まぁ中世の貴族ということだったら、別に親が直接育てるってことがないというのは珍しくもないわけで、それが婚約によって主人公といきなりパーソナルスペースが今までより重なる体験をするわけだ。ところが婚約者は早々に勅命で前線に送られて別れ別れになるわけだが、そこは12歳の子供、離れていることが当たり前だったらそれほどでもなくても、いきなり接近して離されるわけだから寂しくないわけはないのであって、それが兵士を仲介にしてお互いの立場を理解し合うというのがなるほど近代的価値観と前近代をうまくミックスしたドラマ仕立て。
 婚約指輪にしても、貴族のそれだったら大抵は自分の身分を誇示するための象徴という役割のほうが大きくて(だから見苦しいほどまでに大きかったりする)、それを選ばず実用本位なチョイスというのも、実際エリーゼの窮状を救うことになってそりゃ「自分のことを理解してくれた上での選択」と思うしかないし、主人公がエリーゼに打ち明けた「自分は英雄じゃない」というのもエリーゼにとっては初めて目の辺りにする貴族らしからぬ振る舞い(英雄だってある意味貴族の称号の一つなんだから、そうあろうとするのが自然だしありがたがるもの)なのであって、これは自分だけに打ち明けてくれた真の姿であって、あぁなるほど主人公は私を婚約者というか妻より格上の特別扱いをしてくれてると思う(勘違い)しておかしくない。まぁいうなれば、主人公期せずして光源氏計画*1を効果的に実行してたというわけで、これでエリーゼがコロリとやられないはずがない。
 まぁそんなわけで、妾云々の話もよくできていて、中世的価値観で、しかもバリバリ上級貴族で、物心ついた頃から貴族は妾もって当たり前の環境で育ってきたから、いて当然と思うのもわかるのだが、やはり上記述べた通り12歳の少女であって、別に大人であっても夫の寵愛を受けたり剥落したりしたときの喜びや寂寥は更級日記蜻蛉日記などでもあきらかなように、中世的価値観でもあるのであって、そのへんの屈託がないはずがない。なので、「もう既に婚約しているか」との問いがでるのであって、そこで得られた答えから、昔から面識のある女とではなく、今まで遭ったこともない自分と一番に婚約し、自分に対する扱いを振り返って、あぁ自分こそが主人公にとっての一番なんだという確認ができたからこそ、その余裕で妾オッケーのセリフが出たんだろうという。
 しかしなんだね、やはり前回でも述べた通り、近代人はうまれながらにしてそうだから近代的価値観なんて空気のようにあたりまえの概念であって意識すらしないけど、前近代人にとっては全然あたりまえのものでないから、それと遭遇したときに光り輝いて見えるだろうし、この上もなくありがたがるわけで、全く同じものでも誰に与えられるかによって全然扱われ方が違ってくる。それがこともあろうに聖女サマにインストールされるのだから、やはり最強の存在になるしかないんだよな。

かくしごと#5#6

 あーもしかするとだが、原作連載とアニメが同時最終回ということを思い出してしまったのだが、これ、ギャグセンスとシリアスパートがアニメ最終回でクロスオーバーというか、邂逅する感じなのかな?。最初の頃はギャグがただの内輪ウケみたいな雰囲気を感じていたのだが、この段階でギャグというより割と人の機微に触れる感じになってきて、シリアスパートはそれはそれで感情をより詳細に描くようになってる。まぁ業界ネタだろうから調査したり拾ってきたりしたネタより、より実感に根ざしてるし、その構造把握して当然なので、物語の構成時にどのネタをどの段階で投入するか、緻密な計画を立てていてもおかしくない。自分ことここに至ってようやく色んな要素が繋がってきたように思うし、コメディーもうわ滑ってる感覚がなくなってきたように思う。こうなると、もう初期のちぐはぐさあたりは出来が悪いとか様子がつかめない段階とかではなくて、狙ってやってたのかなと思い始めてる。

野ブタ。をプロデュース~#4

 ブログの紹介記事見て、TVerで無料公開やってたからちょっと視聴してみた。というかちょっとじゃないよね。この作品過去に話題になってたときに興味があって、機会があったら原作本読むなり、視聴してみたいとか思ってた。とはいえ別にそう視聴に前向きだったわけでもないのだが、割とタイトルの奇抜さで記憶に残るし、あらすじもいろんな媒体で紹介されてたので気になってた程度ではある。
 まぁそれでも日本のドラマということで、自分どうにもある時期からのトレンディドラマ、スラップスティック的な演技がどうにも受け付けなくてやはり精神的ハードルは高かった。で、今回視聴してやっぱり自分の思ってたとおりだったよというものではあったが、そのスタイルさえ我慢すれば、さすが話題になった作品なだけあって結構引き込まれるものがあった。
 自分が視聴したのは全話ではなくタイトルの通り#4までで、TVerだと以降土曜日深夜に続きを公開らしい。それが無料かどうかわかんないし、まぁ有料で制限かけられたら視聴できないが、そうでなかったらもしかして続きをチェックするかも。
 キャストだが、メインにジャニーズの二人、ヒロインに当時話題になった堀北真希、あと諸々だが、自分頭ではわかっていたとはいえ、ジャニーズ割と演技力あるほうだった。もう15年前の作品で、当時のトレンディドラマの作風がああいう形が標準だったのかどうかイマイチわかんないんだけど、なんつーか、あんまり知的水準が高い層向けじゃないんですよみたいな作りになっていて、今でいうチャラ男役なのだ。で、こう自分の先入観というのは恐ろしいもので、ジャニーズなら今ドキ(当時は)の若者なんだから、チャラ男の演技がうまいのかと思っていたのだが、自分が視聴した限り思ったのは、そういうおちゃらけた演技はサマになってない感じで、物語の展開上シリアスな場面になると、途端に演技力が向上するみたいで、なんとも不思議な感覚。
 堀北も掘北で不思議なもんで、当時は芸能人としてアイドルに近い取り扱われ方で、そういう売り出し方だったような気がするが、いざこの作品を視聴してみると、そういう方面の演技は現段階ですごく抑えられており、陰キャとして発せられるオーラがこれまた凄まじい。
 あと、忌野清志郎が出ててなんかジワる。
 物語だが、まぁ扱ってる題材が題材だし、テーマがもうシリアスなのはわかってはいたのだが、こう4話分視聴して、もう全編に渡って説教臭いのに驚いた。なんか自分アニメではゆるやかな日常とシリアスの組み合わせばっか目にしているせいか、テレビドラマなんてエンタメ重視だろうと思うから、もうちょっとアイドルの見せ場として日常パートを割と尺取ってるのだろうと思っていたのだが、全然そんなことはなく、こう視聴者に訴えたいメッセージが休みなく数珠つなぎになってるイメージを受けた。そのテーマ提示後のヤマ場でのジャニーズの演技だが、上記の通りなんかこちらの眼を見張るような物になってしまって、そのたびに意外に思っていた。こう存在感がチャラ男演技と比べて圧倒的に重くて、表情の付け方にいろんな感情が読み取れるとかそんな感じ。昭和期と違って、平成中期あたり以降のアイドルは、もう幼少時から英才教育を受けてるし、そうでなくても割と初期の頃からいろんなトレーニングを施されるので、並の人間より例えば歌唱力も、このように演技力もそこそこ実力がついているので、そのへん理解してればわからないことでもないんだけど、いざ実際に視聴してみるとこう納得させられるというか。個人的に言わせてもらえば、本人たちにその能力があるんだから、フツーに最初っから自然な演技をさせればよいのに、わざわざスラップスティック風味にするのはもったいないんじゃね?と思う。思うのだが、例えばチャラ男の演技を稚拙に、シリアスモードの演技をまともにさせるのは、キャラの存在感をよりマシマシにするための手法かもしれないし、真面目な話を真面目に作っても、それは堅苦しい作品になるのであって、もしかしたら当時はこういう手法が手っ取り早く数字を稼げる手法だったのかなという想像をしてしまうが、そのへんの知識一切ないのでなんとも言えない。
 まぁそんなこんなで、久しぶりにじっくり三次ドラマを視聴したら、なんか面食らうことばかりで新鮮味があったという段階。シナリオ、かなり粗もあるように思うし、この作品でいえば原作とかなり内容が違ってるという前知識はあるのだが、TV版のシナリオに粗があるといっても別に軸としていろいろ散りばめられたテーマ配置やその提示の仕方に問題があるようには思わなくて、忙しないなぁとは思うが意外にしっかりしてるとは感じた。
 あと、主人公が乗ってる自転車、ブランド名にマリンとあって割と奮発してる。エンドロール見たらマリンのブランド名は見えず、当時の取り扱いはケッチだったらしいが今はどうなんだろ?。クロスバイクにリアキャリアが取り付けてあって、いわゆるシティサイクルという形式のものだと思うが、ママチャリ使わずに凝ってるなとか思いながら視聴してた。

*1:意図してないのだから計画というのもオカシイが