はめふら#11

 昏睡状態になったカタリナを嘆いて、各攻略キャラがポエムを披露する話。ん~、ポエムはポエムで泣けるし、ストーリーラインもそこそこ考えられてるなとは思うんだが、結構笑わせられるポイントがあって判断に困った。転生前の主人公の親友あっちゃんだがソフィアに重なってるような感じで、死んだ主人公と精神的チャンネルが繋がってるのはどういう理屈なんだろ…とは思った。あと、自分の予想は外れていて、生徒会長の事情はそういう設定が付与されてましたって感じで、今までの学園内での描写から推測できるようなものではありませんでした…というもの。まぁこれは仕方がないかな。
 さて、今回自分が笑いもし、ちょっと考えさせられたものの1つに、あっちゃんが主人公に言う「あなたはここにいるべきじゃない」というセリフ。今まで数々の転生モノでも、もう元に世界に戻ることができないという設定が多いのだが、この作品の場合転生後の世界は現実社会とは違う別世界ではなくゲームそのものなのであって、それこそ異世界転生モノがこんなに流行る前は、異世界とは異常な状態なのであって、フツー元の世界(日常)に戻ってハッピーエンドの物が多かったはず。もちろん、この作品でも本人もう元に戻れないことを知っているようだし、破滅フラグを回避してこの世界を生き抜く決心をしているのではあるが、よくよく考えたら、破滅フラグを回避する方法で一番効果的なのはやはり元の世界に戻ることなのであって、そのへんの考えすっぽり抜け落ちてるのオモシロい。他の異世界転生モノがなんのかんのいって、転生後の世界も日本のメタファーなものが多いのに、この作品はもう徹底的にその要素は排除されていて、ゲームの世界法則が日本の社会性とはほぼ関係なく作用してる。なので、主人公は意識していないが、もし主人公がこのゲーム世界の法則を読み切ってしまえば、これほど過ごしやすい居場所はないのであって、ヘンな話このゲームをやり込んだあっちゃんこそがこの世界で俺ツエーを満喫できるキャラと言える。ならば、複雑性渦巻く現実社会と、傾向と対策をしっかりすれば楽に生きていけるこの世界では難易度が違うわけで、人が与えられた環境で人生を一生懸命に生きるというテーマが、ちょっと揺らぐことになる。
 しかしなんのかんのいって、人は死んでしまったら後を振り返ることなんて出来ないわけで、あっちゃんが主人公に語ったあちらの世界で一生懸命生きていけというのは、転生はもう今後ありえないチャンスなんだから、現実社会であっけなく死んだことをもし後悔するのであれば今度は後悔しないよう一生懸命生きろというメッセージであるのであれば、まぁそれはそれで形になってるという感じはする。実際、カタリナはうろ覚えの知識を振り絞って生き抜くことに努力もし、そのために他人のために奔走するという行動になってるわけで。これが転生前なら今回示された通り、母親に起こされたり学校でも授業中寝てたり、それはそれはもう能動的に生きているとは言えない主人公を示してるわけで。人に気配りを絶やさず、それらの人々の支えになっており、もうフォーチュンラバーの世界では攻略キャラたちにとってかけがえのない人物に「成長」してるわけで、そういう意味では確かにもう主人公の居場所は生前の現実社会でなくなってるのは確か。主人公は死んでフォーチュンラバーの世界に転生することで、能動的に生きるという意味でまさに生まれ変わることができたが、視聴者(読者)もそういうカタリナの姿を見習って、もし現実社会に不満があるのなら彼女のように今からでも生き方として生まれ変わることはできるんだよみたいな。
 しかし、ソフィア=あっちゃんなら、現実社会と異世界を自由に行き来できる身分で、主人公にオマエの居場所は現実社会のほうではないと断言するの、なんかもう傲慢に思えてしまってクスリとさせられる。

アルテ#11

 アルテが肖像画の仕事を通じて周囲に影響を与えるのと、今後の身の振り方を提示される回。ん~、これもやっぱこの期に及んでこういう仕上がりになるとは思わんかった。カタリナがアルテの背中(生き方)を見て触発される流れだとか、文化的資本とは…など、考えさせられる要素が沢山。まぁ別に切り口として新しいわけじゃないし、テーマの立て方も王道ではあるんだけど、今までいろいろ投げてきた要素がここでうまく繋がった感じ。
 あとはくり返し言ってる通り人間とは…という問いかけかな。人からすべてを取り去ったら野生の動物と変わりなくなるが、そうではなく、例えば今回のアルテについていえば、彼女から女性であること、貴族であることを取り去ったときに残るパーソナリティがアルテを形作ってるわけで、しかしカタリーナは前回の話で言ってた通り、人間であるならばそこに違いはないという立場で、アルテ自身はいやそんなことはない、やはり女性であること、貴族であることも切り離して考えることは出来ない*1のだという認識に至り、ならばせめてマテイと同じだけ努力しないと申し訳が立たないと苦悩するわけで、まぁなかなか迫るものはある。ユーリの根回しがあったり、徒弟仲間として受け入れるのか客として見学するだけなのかの違いはあっても、フローレンスとベニスでアルテの扱いの違いは確かに違和感があったのだけども、設定するテーマの重さを考えたら全然どうでも良い話という。
 しかしなんだね、こう手に職をつけて諸国を渡り歩くの、人の流動性の高かったヨーロッパならではではあるが、日本でも織豊期は全国規模で行われた城普請など、職人がその場その場で集まったり、それが途絶えても山間部で杣人や木地師などが住むところを変えながら己の技術で全国を渡り歩いていた歴史はあるのであって、企業がバンバン非正規雇用を使い倒すみたいな流れになってきて、決して人を抱えるようなシステムを維持しようとは思わなくなってきてる昨今のあり方に対するなんらかの提示なんだろうねぇ。次回のサブタイ「弟子」だが、まぁ素直にフローレンスに帰っても良し、ベニスにとどまっても、結局の所カタリーナがアルテの生き方に触発されたように、アルテもまたレオの背中を見て育ったということなのだろうから、独立してもレオの教えは弟子のアルテの血肉として結実してるとかそんな理屈付けはいくらでも可能なんで、これもまたあまり決め打ちしないで次回を楽しみに待つのが吉かも。

エスタデイ#11

 陸生と榀子がくっついたことがどんどん明るみになっていく流れ。なんか次回のラストでひと悶着あるような感じだが、それでも大局に影響しないような気はする。というかここでガラガラポンやるのか?。晴は諦めたみたいだし、空き巣の件でもアタックしたわけでもなし、あとは弟くんが激情にかられて周囲が困惑するだけのような気がするが。
 まぁ自分、当世恋愛事情なんてわからんわけだが、印象だけ語らせてもらうと、そもそも結婚が貧乏人にとって困難になった以上、付き合いの延長線上にそれがないとなれば最初っから自分だけの気楽な生活で満足してしまって、よほどのことがない限りくっつこうとする機会そのものが少なくなって、こう取り合いになること自体が減ってるような気がする。なので、この話で言えば、誰かモーションを掛けて接近したら、大抵他の異性は諦めるという流れになって、たとえモーションかけられたほうが他に好きな人がいても、一旦相手の気持を受け入れたらその相手が飽きるなりしてFOやCOでもしない限り流れに乗るか、それとも最初っからお断りになるというか。つまり三角関係や多角関係になる要素が激減で、このような話が成立しないのでは?という感じ。周囲の反応としては、既に知っていたかそれとも「アレ、オマエら付き合ってたの?」に二分化されて、付き合うようになるまでの過程にほぼ他人が介入しないというか。
 あとは時代感覚かな。晴が言ってたセリフ「キープ」も懐かしく、これバブル期のアッシーメッシーと同様の流行語じゃなかったっけ?今も使われてるのかわからんが、ナウなヤング同様手垢のついた言い回しになってるような気もするが、正直なところやはりわからん。テレビの下にあるビデオデッキやビデオカセットの並び、それにガラス戸のテレビ台も懐かしい。
 個人的な視聴態度として、今後の進展に期待というよりは、もう見納めモードになってるような。

司書#25

 護衛の不手際でマインが危機に遭い、神官長が水戸中納言になる話。やはり正直なところ、これ続編あるでしょと思ってしまい、実はついさっきWikipediaの見出しを目にしたらなんと五部構成のこれは第二部らしい。そりゃ終わらんわな。ただ、そう考えてみるとアニメ続編があるかないかは微妙な話で、それは結局の所人気というか、売り上げ次第でしょという。今までもアニメ1クール終了しても原作はその後がずっとあるのに続編は作られなかった作品たくさんある。この作品もどっちになるかはわからん。2期まで作られて、3期に続く気マンマンだったセキレイが音沙汰ないのちょっと寂しいとずっと思い続けて幾星霜。まぁ今となっては男の子ドリーム満載の萌えアニメなんで需要ないかもな…。はてな最終回でも言及したパパ聞きもおそらくもう無理。
 まぁ続編あるにせよ無いにせよ、このラス前での全く本と関係のないシナリオにちょっと当惑してたのだが、今回の話で深く納得したというか。それこそ第一部ではむしろ中世的価値観の世界にマインが近代的価値観を持ち込んだ流れだったのが、この第二部、もうホント時計の針が逆転でもしてるのかと思ってた。他の作品でもほぼすべてが第10話第11話にクライマックスを持ってきて、当然そこに一番伝えたいメッセージが仕込まれているわけだが、この作品も例外ではないだろう。
 まぁ要するにこれは逆説的に現代日本そのものについて言及してるわけであって、すなわち、今回の話で言えば、シキコーザという傲慢な貴族の振る舞いに対して、それより上位貴族であるフェルディナンドが機能しなかった世界線が現在の「立法の長を自称し、天皇を凌ぐ権勢を誇ってる」政権が支配する日本なのであって、あーこの作品もそ~ですかーと言ったところ。そして別にこれはアベ政権に対する間接的な批判だけでなく、社会のあり方に対する疑問も投げかけてる。わかりやすい例で言えば、国民は平等というのを悪用して身の程をわきまえず、クレーマーやモンペの跋扈する日本全体の構造も批判対象のうちに入ってるわけだ。おそらく神官長が現代日本の有様を見たら、身分制度がないから社会が壊れるのだと断言するだろう。
 我々現代日本人が、まぁ実態はどうあれ国民は平等であって身分で差別されるべきではないと思っているように、神官長は身分制度がある事が自然なあり方、というかそれすら意識してない可能性すらある。ただ、身分に上下があるのだったら、上には上なりの、下なら下なりの社会を正しく維持していくための正しい行いというのはあるのであって、それはノブレス・オブリージュというよりはむしろ帝王学的な観点で意識と規範が一体化していると思われる。ただ、やはり人間というのは欲に抗うことは難しいのであって、上級貴族は上位であるからこそその特権が行使できることを背景に、自制心というか現代でいうところの意識高い系のあり方ができるのだろうけども、シキコーザのように中途半端な上位(というか中位)貴族だと、上を見たら嫉妬に身を焦がすし、その鬱屈を身分の低いものに晴らしてマウンティングをする姿、決して皇室とのつながりのあるアホーのような貴族ではなく、家系図的には全然日本古来の貴族とのつながりがまったくなく、新興財閥の力を背景にのし上がった成り上がり貴族でしかなく、それも敗戦後は日本のすべてを敵国に売って間接支配のエージェントとしてしか権力の維持を図ることが出来なかった岸一族のあり方そのものの写し鏡になってる。現在の日本の悲しいところは、伝統的な日本の貴族出身ならそもそも古い日本のあり方からの変更を嫌う保守の立場だろうし、なら古い因習ひっくるめて日本を守る気概みたいなものがあって当然なのだが、岸家の場合は日本を売ることそのものが宗主国の力を後ろ盾にする条件なのだから、日本の社会を壊すことそのものが権力の源泉となる。この作品そこまで言及してるわけではないが、アベは日本が海外植民地を獲得してからの新興財閥を背景にした成り上がりであって、その時のオイシイ思いがいつまでも味わえるように、自分を頂点とした新しい貴族制度を目的としながら、その手段として名目上近代国家の制度を悪用しているわけだ。彼が政権に復帰して日本が法治国家でないことが明らかになったし、選挙制度もその制度を通したから彼に都合の良い制度が大衆に支持されたという形を取ることだけに利用されてる状態。つまり中世的身分制度を自分を頂点として作り変え、近代的制度はそれを強化するためだけに悪用されている。前近代的ありかたも近代的あり方もすべて彼が都合が良いように利用されてるわけで、要するに、これは「前近代も近代もそういう使われ方をされるんだったら、むしろ前近代と決めたら前近代だけ、近代と決めたら近代だけと統一してしまい、その良い部分だけを社会の規範としたほうがマシなんじゃないですかね?」といった提言のように見受けられた。今回の話で具体的に言えば、フェルディナンドのように社会を維持する役割を特権を与えることと引き換えに上級貴族に任せるが、平民は権利を制限されるけれども守られる対象であって余計なことを考えずに日々の生活を意識していれば良い…わけで、もしこれが近代なら、社会の構成員の全体が権利が平等であるわけだが、しかしだったら社会の維持に関しては全員が関わらなくてはならず、全体の利益を損ねるような自分の利益だけを追求するのではいけないわけで、これが近代市民のあり方。まぁはっきりいって、本来の近代国家の概念においては、国民の大半が政治的無関心であるということは自己矛盾でしかないのだが、現代日本は果たしてどっちですかね…といったところ。今回のように上級貴族が正しい判断を下し続けてくれるんなら、平民にとってはフェルディナンド様マンセー、その労力の代わりに贅沢しても構いませんよなわけで、近代マンセーなら、私腹を肥やしてはいけませんよ、シキコーザのようなイレギュラーが発生したら全員が協力して彼を即刻排除して再教育し社会に再度取り込まなきゃならないですよということになる。
 ただ、わざわざこの部分をクライマックスに持ってきて、フェルディナンドの貴族としての正しい裁定者という姿をかなり肯定的に描いてきたように思うんで、原作者か、この部分をアニメ化する必要を感じたプロデューサーなり監督なりのスタッフ、おそらく日本には近代国家は無理だったんだという判断をしてるんじゃないだろうか。民主主義も形ばかりで身分制度は隠れて存在してるし、その基礎である近代市民の育成に、特に戦後教育は失敗した。だってマインをフェルディナンドが身分の上下で有無を言わさず助けた時、視聴者(読者)のみなさん、胸がすく思いがしたでしょ?という問いかけだと思うんで。アレみて「ああいう場面でフェルディナンドに頼る気持ちになってはいけないんだ、我々があんな状況を生み出さないよう不断の努力を続けなきゃならないんだ」と思った視聴者どれだけいたことやら。
 で、別に中世でもいいんだよと。平民は平民で上のいうことを黙って聞いてれば良いという社会でも、あまりに虐げられたら別にプロテストの方法がないわけではなく、中世だったら為政者があまりにアホだと内乱起こして政府を転覆させてきたでしょと。日本の場合その主体が今までは別の貴族だったり武家だったりしたわけだが、今となっては平民が団結して政府を転覆させても構わないわけで。むしろ平民がそうなって始めて日本が近代国家への一歩を踏み出すんじゃね?といった感じ。

ルフレ対抗戦やられた

 やべぇっ、寝オチしたか?と時計を見たら19:40分ほどで、間に合ったかと胸を一旦なでおろしたのだが、今回から初日の第一戦開始時刻が変更になっていて、結局第二戦目からの参加になった。先月までは第一戦19時、第二戦21時、第三戦22:30開始の各一時間戦闘だったような気がするが。昨日には聖櫻学園通信読んだが、ストーリーの回でイベント告知ではなかったし、今日更新の聖櫻学園通信も別の告知。しかも今日生放送があって、その告知も今日だったらしいし、ちょっと酷くありませんかね…。
 まぁ対抗戦、初日は調整であんまpt稼がないし、全日程全戦功労賞取りきらないと下位SRもらえないわけじゃなし、そのへん実害は少ないんだけど、ちょっとこれは…。余裕を持ったつもりだろうが、開始時間が繰り上げになった分、イベントを意識し続ける時間は、先月まで19:00~23:30、今月17:00~23:30と、張り付く時間が長くなってる分改悪じゃね?とも思うわけで。勧誘バトル間の待ち時間を長くされたところで、その時間にほいほい都合よく他の作業を入れ込めたり出来ないんで、もうちょっと考えてくれても良さそうなもんだが。

*1:このへん昨今話題になった東大に入る学生の家柄が良いのが多いのは、結局貧乏人と上級国民では子供に施す文化的資本がぜんぜん違うからと言うのにもつながる。