サクラダリセット 第24話

 なんや、結局ハーレムエンドやん。
 視聴後、これが本作のエンディングかといろいろ感慨深く意識がいろいろ散っていた。それなりに感動はしたのだが、どうにもしっくりこない。前回も述べた通り、この街から能力が消えるのを阻止しろというエピソードも、浦地を始めとする管理局の一部とケイ周辺だけで起こった事件になっていて、それ以外の人々は彼ら同士の闘争があろうとなかろうと別になんということはないという話だからだ。能力が残っても今までの日常が続いていくだけだし、能力が消えたとしても、それは最初から能力なんて無かったという条件で世界が再構築(五分前世界説)されるだけで、やはりなんの自覚もなく日常が続いていくだけ。
 今回違和感があったのは、そうやって、おそらく世界を救うこと自体はケイにとって大したことがないんだったら、この女二人によるケイの争奪戦こそ本題なのかなと思いきや、どうもこれすら違うっぽいという気がしたこと。前回ケイが浦地を説得するにあたり、浦地が苦しんでいる原因を何とかする際、浦地の親にかけられた呪いのようなものを猫に移す、しかも今回はその猫すら救えるものなら救うともいわれているわけで、女二人の抱える齟齬を解決できるのであれば、躊躇なくそれを選ぶということなんだろうなというふうに思い至ったのだ。よく考えてみたら、春埼は菫によって道具としてケイに与えられたわけであり、そのことは春埼にとって自分の持つ能力の意味付けや自分の存在に意味を与えてくれるということであった。菫がいなければ春埼はおそらくずっとぼっちだったわけで、なので春埼は菫に感謝こそすれ、敵対するはずがない。菫にとってみれば、春埼はケイが自分(ケイにとっても菫にとっても)の思いを遂げるために必要があって与えたわけで、しかもケイが春埼を使いこなすようになるためには精神的なつながりが構築される必要があるということも知った上でそのようにも仕向けたわけで、春埼がちゃんと彼女の能力をケイの意に沿って発揮して事態が思い通りに進んだわけだから、菫がケイに好意を寄せているにせよそれはある程度納得の上で自分自身が決断してそうしたわけなので、結果は受け入れるしかない。そしてその菫の思いをケイは知っているわけだ。ケイにとってはふたりとも恩人というか無くてはならない存在なわけであって、ケイがどちらかを選んでどちらかを捨てることによって、二人のうちの誰かゞ悲しむことになるのであれば、そのような選択は取れないということになる。ならば、二人とも選べばどうなのか?という話であって、要するに、二人とも選ぶことによって春埼と菫の間になんらかの障害が生じなければそれが一番よい結果ということになる。その結果が、ケイが二人を選ぶことに対して二人がそれぞれ納得するということなのだろう。まぁそう考えてみればなあんだという話であって、単に社会通念として一夫一妻があたりまえだから1人のオトコは1人のオンナを選ぶべきという既成概念にとらわれているというわけで、それから解放してしまえば問題は解決というわけだ。ある意味男女間の情念について今まであっさり描いてきたのはそういう意図があるのかなとか思ってしまう。
 で、これが一番重要だと思っているのだが、おそらくケイは人助けそのものがやりたいんじゃないんだろうなという気がしてる。人助けをするために能力が必要だからというのではなくて、むしろ逆なんじゃないかと。彼は能力のないところからやってきたわけであり、能力を獲得して思ったことはおそらく「能力を持たない自分はなんの取り柄もない人間」と思ったのだろう。彼は能力こそが自分を自分足らしめているのであって、能力を持った自分を他人に肯定させるために人助けという他人に否定されようもないものを選択してるんだと思う。彼は能力を失えばそれは自分を失うと認識しているからこそ、あれだけ街から能力が消えることに必死で抵抗したと考えるべきだろう。そのために浦地に対しては一番彼が欲しがっているものを与えることによって、自分が能力を持つことを認めさせたという構造になっている。彼はあくまで自分の能力についてこだわっているだけだからこそ、最終回の今回は何度も何度も「自分は我儘」といってるわけであり、そして彼はその本心を誰にも明かしていない以上、他人から「能力を使って必死に他人を救おうとしている善人」に見えてしまう。今回春埼がケイの記憶を流してもらって涙しているが、アレ、あくまでケイの記憶であって本心ではないからさとられないし、菫も未来視があるといっても、やはりケイの本心まで見えるわけではないから、彼の言動だけを取ってみればやはり善人としてしか映らないと言える。
 そうなると、たゞ彼の存在を規定するために能力を温存するとか、確かに臆病で我儘なんじゃネ?と思わなくもないが、やはり浦地のように、彼にそれを認めることによって彼が全体の奉仕者になって社会の利益になるんだったら、そりゃ積極的に肯定しても良いんじゃねということにはなる。善意の独裁者とかそんなテーマなのかなということが頭をよぎったこともあったんだけど、案外もっと個人にフォーカスを当てゝいるように思う。
 で、本当に作者がそういう意図なのかどうかは別にして、仮にこうだと考えるとなんか胡散臭いようにも思ってしまったのだが、ふと思い出したのが東北の震災復興ヴォランティアに行った若者が、そのまゝ移住した例。そんなに数は多くないとは思うんだが、一時期ラヂオでその例が紹介されていてなるほどねぇと思っていた。その移住した若者も、都市で働いているときにはそんなに条件の悪いところでもなく、しかし、東北でヴォランティアをやるにつれ、どうやら顔が見えることに意義を感じたらしい。都市部では仕事というものは高度に分業化され、自分のやっている仕事が果たして本当に社会の役に立っているのかどうか分かりづらい、しかし震災復興でヴォランティアをやれば、面と向かって感謝もされるし、自分のした仕事が目に見える形なので手応えがあるらしい。しかも都市部の仕事で得たスキルが地方でそれなりに効果を発揮するということもあって、やはり存在意義を感じやすいらしい。都市にいれば埋没してしまうが、地方だと必要とされるし人助けになるところなんぞ、本作の主人公と重なり合う部分は多いように感じる。
 まぁそんなわけで、視聴している最中は会話にキレがあって、こう事態の進展も興味深く感じられたのだが、いざ終わってみると思ったより心に残るものが少なかったなという不思議な感覚。もっと深いテーマがあるのかなという気がしてたのだが、自分が見落としているのか、割とありきたりなものが題材になっているようで、肩透かし感が半端ない。だからそれがダメというつもりもなく、こう一般的に大層なことのように思えることであっても、突き詰めて考えたら結局単純なことなんじゃね?というふうに分解してみせたともいえるし、逆になんでもないようなことでも、厳密に定義すると結構めんどくさいんだよということを示しているようにも見える。世に溢れている物語というものはとかくラストに向かってクライマックス基調で、かといってそのアゲアゲ感動ストーリーは一時の感動を与えてはくれるんだけれども、別にその感動が長続きして社会を良い方向に進めてくれるってことは無いわけなんで、こう、最后に等身大にシュリンクしてしまうこういう作品ってあまり経験がなかったから今の所違和感があるのだけども、何気におもしろいのかもと思ってみたり。
 あと、幾原作品じゃないが、この作品視聴すると非常に疲れる。なまじっか魅力的なだけに視聴後も意識が残るし、違和感のあるところはつい考えさせられてしまう。別に頭を切り替えりゃいゝのだけども、自然に次の作品を視聴しようかという意欲が減退してしまうんだよ。