サクラダリセット 第20話

 ん〜、やっぱり五分前仮説は避けられない問題なんだろうな。
 ハルヒでもそれが底流としてあったからねぇ。個人的にはわざわざ言及しなくて話を進めてもらっても構わないのだが、原作者としては誠意のつもりなんだろうか。結局この作品はあまり概念としてのオリヂナリティはあんまりなくて、しかしよくできたアレンヂではあるので、自分はそれはそれで評価しても構わないんじゃないかと思っているのだが、なにかお勧めのアニメは?と問われてこの作品を推した友人の一人は、話題になっているけどオリヂナリティがないからパスとか言っていて、うーんという感じ。その友人の言もわかるのだが、かといってその友人がつまみ視聴している作品を聞くに割と出来の良くない作品を試しては落胆し続けているようなので、なんだかなぁといったところ。その友人も別にアニメは好きではなくて、いわば市場動向としてチェックしているだけなので、その作品に関する情報、要するに市場で受けている理由や、取るに足らないなどの断片…、がつかめたら見切っており、その態度に齟齬はないのだが…。
 今回白眉だと思ったのは、ケイが母親に対面するシーン。単なる母子の対面としてはお涙頂戴としての要素ぐらいしかないが、この作品に投入してきた能力を踏まえた上では、フィクションで感動を作り上げるという仕事っぷりはなかなかだと思った。個人的には春埼との対話で視聴者向けに答え合わせするなんて無粋なことをするなぁというか蛇足と感じたのだけども、これは自分でも文字情報だけの原作を読んだら気づかなかったかもという可能性を考えると仕方がないのかも。なんでエンドロールで主人公の名前表記を今までカタカナにしていたのか、今回登場した妹は初登場なので、いわゆるネタバレだとかそういう懸念はあまりないとは思うが、なんとなく伏せておいたほうがよいという思慮はなるほどぐらいには思う。
 で、人に呼ばれることの影響まで考えての命名ってのは、これ、自分が長年そうだろうなと思っていることがあって、名前がその子供の性格付けに深く関わるって現象を観察した(いたつもりである)ことがある。その顕著な例が女の子の名前によくある「愛」というもので、大体この名前を持つ人は穏やかな感じであることが多かった。というか自分の観察範囲ではほゞ例外がないといってよいほど。物心つかない頃ならそうでもないのかもしれないが、子供がその意味を知って尚、親や友達、周囲の人から全員その名で呼ばれ続けたら、やはりその意味が内包される形でその子に影響しないはずがないとはずっと思っていた。所詮この作品はフィクションであって、現実もそうなると断定しているわけでもないのだが、しかしこの作品のケイのあの性格付けを考えてみるに、やはり原作者もある程度は名付けが性格付けにも影響しているという実例を見てきているのかなとか思わざるを得ないほど、自分には深く刺さるものがあった。
 しかし、こうあの能力がなくなった後の菫のあり方を見るに(菫も改変前と改変後の記憶の両方を持っているという描写が傘をさすシーンで提示されている)、菫は春埼を排除して自分が選ばれることを期待して仕込みをしていたのか、それともそれすら裏切られると分かっていて尚あの仕込みなのか、それともそれらすべてを見通した上であの刹那的な仲良し関係を体験できるだけでも儲けものと思って仕込みをしていたのかと考えると、何重にも楽しめてしまうという。春埼にあの桜の写真を預けていたのはケイの保険だったのだろうが、今回桜の前で泣いてみせたあの態度も春埼に能力を使わせるための演技だとしたら、結構ニヤリとさせられる。さすがにあのシーンでの回想*1はちゃんとやってくれないと、自分すっかり忘れていてポカーンだったろうが、あのシーンが有るおかげでケイの涙の本質が特定できなくなってこのように一層面白いことになっていると思う。

*1:泣いている人のためにこそ能力は使う