凪あす視聴した。

 さすがに2日に分けて全編視聴。体力的に2クール分一気観することはできないお年頃なのだが、それでも連続視聴したいと思うだけの勢いはあった。
 ただ、色づくを前に見てしまっていた自分からすると、個人的には色づくのほうに軍配があがる感じ。凪あす視聴後にキーワード検索してみたが、大ヒットというわけではないがいちおうヒットしたといい切っても良いだけの人気を獲得していたように見受けられるのだが、まぁそうだろうなと思わせるものはある。それというのも凪あすは、こう、激情的というか、泣かせポイントが随所に散りばめられていて、実際に自分も大半の時間泣きながら視聴してたのだが、あぁ、こりゃ視聴者は退屈しないなという構成にしてある。この作品2013年公開で、もうそんなに経つのかとちょっとした驚きがあるが、2011年に同じ泣かせ作品のあの日見た花の名前を僕達はまだ知らないがヒットしているので、おそらくそれの系統を狙ったのだと思う。
 凪あす、作品の大半を恋愛要素で埋めているし、当然それがこの作品のウリではあるのだが、だからといってこの作品が伝えようとしている…というか語っていることが恋愛要素か?と言われると、それは違うんじゃね?というのがちょっと面白いところ。例えば色づくでは、感想で述べた通り作品のターゲット層はおそらくキャラと同じ高校生がメインだろうし、青春を謳歌しろというテーマも、そのまま当てはまると思うのだが、では凪あすがキャラが中学生だからターゲット層が中学生メインか?と言われると違うといい切ってもよいだろうし、「好きという気持ちを大切にしろ」という作品中で語られていることもこの作品のテーマかと言われると、冷静に考えるとそれもおかしくね?と思わせるものがある。
 となると、この作品が語っていることはなにか?というのは、まぁいろいろありはするが、P.A.Worksからしてフツーに考えるとやっぱり地方の過疎問題じゃね?という感じ。但し、そのテーマは背景として埋め込まれていて強い主張というふうにはなっていない。だからこれがメッセージ性という位置づけにあるわけではなく、あくまで恋愛要素を客寄せパンダとして効果的に利用しながらも、このテーマをとりあえず視聴者についでに見てもらうって体裁をとってる。
 この作品の舞台背景がちょっと複雑で、主人公たちの生活地である海村と、それに対置する陸の関係とは別に、電車でいく都市部という三箇所で成り立っており、もちろん海村が「過疎化に悩む地方」であることは間違いないのだけども、「陸」が都市部か?と言われるとそれは微妙なところ。実際に第2クールの五年後の物語ではフツーに人が減っているし、それは別に地方の問題というだけでなくって少子化として日本全体にもあてはまるわけで、単純な都市・地方の対立関係になってない。とはいえ、やはり海村に焦点を当てると、やはり日本の過疎の地方がモデルになっており、しかもTVなどの調度や自動車などのスタイルなんかを見ると、まだ人が残っていてある程度活気があり努力していればまだなんとかなっていたかもしれない昔の田舎という設定になってる。
 この作品を視聴して当初、村の掟というのが口の端に上っていたから、なんやろと思っていたら、海村の女が陸の男と結婚して子供を産めば、子供は海村では暮らせないから村を追放ってことになっていて、それ、結局の所海村の女の未練を断ち切るためのむしろ思いやりになってるんじゃね?と思ったわけで、そのへん不思議な感じがしてた。ただ、背景として構造的に示されているせいか、結構単純な話に落とし込んでいて、それは人口問題に尽きる。テキスト構成的に山場は2つに絞られていて、それは海村が休眠状態に入る第1クールラストと、海村が休眠状態から明ける第2クールラスト。それぞれ何が起こって(原因)、そうなった(結果)のかを言えば、

  • 第1クールは主人公姉が海村を結婚で出ていって、要するに人口流出したから休眠したという構図
  • 第2クールはサブヒロインが陸のイケメンゲットして、要するに人口流入したから休眠から明けたという構図

 になっている。反論しようにも全くそのとおりですよねというしかない。もう一つ重要なのはまさにメインの主人公のカップリングであり、「そもそも村の男(女)が村の女(男)を引き止められなくて、なんで過疎化が避けられよう」という主張になっている。で、村の掟というか村の象徴である海神を筆頭に村がなにをやっているのかというと、この物語ではおふねひきという海陸共通の祭りですら、自分たちのちっぽけなプライドを満たすために排他的な態度を示してわざわざ人を寄せ付けないことをやってるわけで、そりゃ村の女が逃げようとするのも当然でしょといったところ。「えな」という、水の中で自然に呼吸できるギミックが仕込んであるが、これは村で暮らすための因習陋習にあたるものであって、陸の人間が海村で暮らすためのハードルになっているのは明らか。田舎のめんどくさい人間関係やその他諸々なのであって、田舎の人間はたやすく捨てて都市に逃げることができるが、都市の人間が田舎で暮らすためには獲得しないといけない資格のようなものなのだから、そりゃ田舎が忌避されて当然。で、物語ラストで海村が休眠から明けたのも、村の若者が努力奮闘して結果を出しており、村の長老だかしんないが老人共はなんにもしなかったのであって、状況を変えるのは結局の所、在地の若者の力に期待するしかないというのもまぁそうだよねというしかない。
 ドラマ部分は、主題に視聴者を引きずり込むためのエサでしかないのだが、そのエサ極上のものでないとたくさんの視聴者が釣れないのでさすがに練り込みはかなりのもの。ただ冷静に考えてみれば、これキャラクター同士のマッチングが過不足なく行われているのでもうフィクションとしか言いようがないのだが、とはいえ、人口の少ない環境ではそのマッチングこそがまさにクリティカルなものなので、ある意味リアリティを示したと言えなくもない。この物語は人間関係において徹底的に贈与に対しての返礼*1という構造になっていて、そこにラスト、デウスエクスマキナと思わせて実は海神様もその贈与-返礼の玉突きの行き着く先になっているのが面白い構図になっている。第2クールで、サブヒロインとイケメンがマッチングされて、それが物語がまとまっていく最初のフックになっているのだが、やはりクライマックスで示されているのは「一番の功労者に一番欲しかったものが与えられる」という主人公のマッチングなのであって、でも結局の所、どの男(女)にどの女(男)が与えられるのかという玉突きで、あぶれるキャラは一人もいないってのがまぁそりゃ美しいよねという感じにはなっている。視聴者の反感を買わないためにご苦労さんといったところだが、悲恋あってこそ幸せカップルが引き立つとは言ってもそんな時代じゃなし、誰かの幸せのために誰かの犠牲が必要ってのもこれまた田舎のダメな構造*2なので、純文学ならまだしも「物語」なのだから理想を語るの上等!で構わないと思う。
 青春を謳歌しろというわざわざ口に出して語ることの程のものでもないものをテーマにしていても、ちゃんとそれが必要であるという時代背景を押さえたものであることを考えると、個人的には色づくのほうが推しではあるんだけど、凪あすもかなり楽しめる作品ではあった。ただ、上記の通り、凪あすは感情スイッチのオンオフで視聴者を操ってやろうという要素が強いので、視聴して疲れる感じではある。まぁどちらもP.A.Worksを代表する作品と言ってよいのではなかろうかとは思う。

*1:贈与だけならまだしも、贈与に対しての返礼は「交換」ではないのか?という議論はさておき

*2:実は都市部でこそそれが意識されないよう効率的に行われているのではあるが