恋は雨上がりのように 第12話

 こっちの終わり方ですか。
 原作の方はまだ連載継続中だったと思ってたので、こう終わらせるとは正直思っていなかったというか。おっさんホイホイだとこの終わり方はどうなの?という感じはするが、逆に終わらせるならこの方法しかないのかなという気もする。
 この作品に対する評価は、結論から言うと楽しませてもらったというものではあるんだが、なんというか、ちょっと思っていたのとは違ってたかなという。深夜アニメといえどもそんなにドロドロした関係を描くはずもないとは思っていたんだが、なんかどことなく核心を避けているようなそういう物足りなさは終始感じていた。あきらが店長に押しの一手で告白をして、それで店長に若いときの感覚が蘇ってくるところまでは定番でもあるが、なるほどそういう方向性かと納得もできたんだけど、店長の作家志望のほのめかしがあって、純文学要素が強くなるにつれて、どっかスかした雰囲気がこう自分と作品との間に溝を作っていったというか。逆にそういう態度が明らかになるにつれ、なるほどそれがやりたかったのかとも納得できて、そのへん絵と純文学と大衆要素の複合、それがアニメ化されることによって更に洗練されるというところは、それが目的だとしたらかなり成功しているとは思う。何気にOP・EDも含む音楽全般も凝ってるなぁと初期の頃から思ってたし、パートの分け方はオーソドックスにしながらも、だからこそ中身で勝負しているんだろうなという気概も感じられた。
 しかしなんというか、もし前述の通り、わざわざあきらが陸上を諦めた際の苦悩を描かなかったというところにそれなりの力点があるんだったら、この終わり方はちょっとどうなんかなという気はする。正直無理して物語として〆なくても良かったのでは?という感じ。原作でもあきらが陸上に復帰しているのかもしれないんだが、あきらには更に怪我の危険を犯してまで陸上の記録を更新する意味はないのだし、前回の感想で述べたとおりはるかと一緒に活動することにこそ意味があるのであって、怪我をしない範囲で記録向上を目指すという落ち着き方になると思う。まぁどっちにしろ陸上競技に復帰するのなら、フツーはアルバイトなんてしてられないので、それだとこのアニメの終わり方のように接点がなくなるってことになるわけだが、それだと「恋は雨上がりのように」ではなく、「恋は雨宿りのように」となってしまうわけで、おそらくそれは原作者の意図とはズれているような気がするんだよね。あきらは陸上は諦めたけど、心情的にはそれは雨が降り続けている状態ではなく、晴れ上がった状態という意味だからこそこのタイトルなんじゃネーノ?といったところ。いやまぁそうやって心の安定を得たから、昔諦めた陸上に再チャレンヂできるようになったということでも別に構いはしないんだけど。(蛇足だが、店長はあきらに触発されて作家志望に復帰したわけではないように見える)
 さて、この作品が恋と嘘との後継というわけでは全然ないんだけど、比較をするならば、恋と嘘は積極的に視聴者の下半身に語りかけるという手法だったのに対して、この作品は徹底的に節度を保つという態度だったように思う。もう一つ念頭に月がきれいもあるんだが、これも恋と嘘のように登場人物が責任能力がない若者がメインだったし、さらに太宰がモチーフだったがこれも文学と絡めてのことだった。何?、今文学をはやらせようとしてるのか?。
 まぁ面白いもんで、太宰の「人間失格」も、若いときに読んでいなかったのだが、おっさんになってせっかくだからと読んでみると、アレ?、みたいな。おそらくこれ若いときに読めば主人公クズだなと思っていたと思うんだが、歳とって読むと主人公に共感できるか?と言われると微妙だが、といっても人間としてクズだとは全然思わないんだよね。
 で、純文学はおろか出版業界全般が低調になっている今、なんで純文学なの?というのがまぁわからなくもないんだけど、なんか釈然としないというか。で、純文学を振り返ると、戦前の作家と戦後の(活躍した)作家では作家としての能力に格段の差はないんだけど、受け取られ方において断絶といってもよいほどの差があって、月がきれいが太宰を、そしてこの作品が夏目を挙げているのがなんとも興味深い。そしてそれをアニメを媒体にしているのがなんともねぇ…。