終末のイゼッタ 第12話

 ゾフィーと発音するのなら、Izettaはイツェッタと発音すべきなのでは?。
 うーん、結論は核廃絶なのかな。これに達するためにわざわざ核爆弾を前面に出さず、魔法というワンクッションを挟んでからという展開は、視聴者にスムースにそのイシューに導くためと考えると筋が悪いという気はする。北朝鮮ではないが、切り札があるのなら有効活用するのは生き残り手段としてはまっとうだし、そのへんフィーネが魔法を手放すのは別に彼女の決意でそうなるんじゃなくて、成り行き上手放さざるを得ない状況になってたからだし、そのへんアトランタ共和国の問いかけに誠実に答えているわけではない。ヘンな話、核廃絶に対して人類が何をすべきか?というイシューに対する答えがこうであるならば、あくまで核兵器は魔法からの誘導物=魔法は科学技術のメタファーであるという前提ということになるが、イゼッタとゾフィーの戦いで消費された欧州の魔力、即ち源泉の消失という事態は、要するに科学関係の技術者を根絶やしにしたってことなの?と曲解してしまう。いやそりゃ強引でしょとは思うが、科学技術というのが、人類絶滅の危険性の側面だけ開発を凍結するってことは現実問題として可能性は絶無なので、しかし魔法が全世界から問答無用で消滅するってことは、人類が意を決して科学技術に対する何らかの強烈な封印を施すってことだから、生半可なことでは魔法の利用を皆無にすることはできない。
 が、そういう理念のテキストへの落とし込み、歴史への洞察やリアリティには大いに問題はあるが、イデオローグものとしてはそうそう悪くはないのかもという気はしている。結局のところ魔女という素材は、この物語がおとぎ話に過ぎないんですよというアナウンスであるし、そうであるならば、齟齬はあんまり問題にしてもなというところ。
 愛国情緒に塗れていたのはどうかと思わなくもない。自分なんかは歳をとっているせいか、以前のエントリーでも述べたとおり、フィーネがイゼッタをたらしこむ手法だとか、イゼッタが自己犠牲に走るような状況作りとか、その愛国描写と見えるものが実は先の大戦での事例を踏まえた「これやっちゃいけないこと」でしかないということがわかるんだけど、そのへんの前知識のない視聴者だとこれを自己犠牲の美しさと感じ取るかもしれない。フィーネはキレイ事をいう割には実はダメダメな元首と描かれているわけだが、そのへん視聴者のレヴェルによって見え方が違うように作られているのはわかるが、もうちょっとそのへんの匙加減は考えても良かったのでは?ぐらいには思った。
 あとせっかく映像技術の時代考証とかそれなりに敬意を払ってたと思うのだが、そういう遊び心が後半には見られなくなってしまったのがちょっと残念。
 魔女計画に関わってたおっさんが国を裏切るのかと糾弾されていたが、おっさんが国に裏切られてるんだよという構造とか、まぁ単発で抜き出してみれば面白い要素もふんだんに織り込まれていはしたのだが、やっぱ全体を俯瞰してみればうまくいってないなというのが正直な感想。