馬鹿野郎#14

 ルドルフが反乱を起こしてフィーネが国を追われる話。それにともないエッジャ村もまた放浪の旅に。こう、フィーネのあり方はそりゃあまりに甘ちゃんでしょと思うしかないのだが、これがよくできているというか、それでもよくわからんというか、いろいろ考えさせられる。話し合えばわかってくれるというのもたいがいお花畑で、いわゆる九条教批判ではあるんだが、フィーネは前回そのオカシナお花畑を使って戦争を終結させてもいるし、物語上の都合ではあるんだろうが、筋を通していれば救いの手も差し伸べられるという形にはなってる。中国古典でも、春秋戦国自体の逸話にはそういう話がいっぱい出てくるし、こんなのキレイ事でしょという提示にも見えるし、いやいやキレイ事でも人類はこういう方向性を目指すべきでしょという提示にも見える。
 ルドルフの反乱も、大衆に武器を渡して扇動するあたりはロシア革命の基本形だが、欧米列強が植民地化する方法そのものだし、なんといっても現代でいうと反米国に対する合衆国のやり口。実際には欧米は表に出ずに、傀儡の現地人にやらせるわけだが、それに乗せられる庶民は愚かであるというのも定番。放浪しているエッジャ村の連中は歴史的にはユダヤ人がその役割を担ってきたのだが、現代だとユダヤ人こそが他民族を追いやってたりするからな…そのへんも皮肉といえば皮肉なんだけど、そのへんまで織り込んでるかはちょっとわからん。ユダヤ人にしてみりゃ今まで追いやられてばっかりだったから、自分が追いやる側にまわらないと延々と根無し草を続けざるを得ないとの判断だろうし、でもそれは人類にとってはむしろ後退なのでは?とも思うしで、ただ、先の大戦戦勝国も敗戦国もさんざん反省して国連を進化させて国連にグレードアップしたハズなのに、いざ冷戦が終わってみるとその反省もどこへやらだし、国連も各国からカネを無心するだけの無能組織になってしまったしで、なんのかんのいって人間は進歩しないのかねぇという諦観もあってよさそうなもんだが、それを敢えてアイロニーたっぷりの活劇に仕立てて消費の一形態になってしまうのもある意味感慨深いというか。

蜘蛛T14

 こちらも英雄が反乱を起こされて放逐される話。っつーか、よーやっと話が動いた。今までが、バトルシーンがあっても退屈だったから満を持してという印象。こういっていいのかわからんが、ある意味カタルシスが得られた…という感じなのかな。
 しかし、よくわからんのがやはり蜘蛛子と人間パートの時間の流れが混乱してるあたり。蜘蛛子がAパートで助けた吸血鬼の赤ん坊、Bパートでは英雄を追い詰める中ボスになってたと思うんだが、同一の時間を生きてないのかねぇ。
 西洋ファンタジーだと、魔族だとか異種族というのは異民族のメタファーだったりするんだが、JRPGファンタジーだと、単なる派閥違いになるのがオモロイといったら言い過ぎか。いやまぁ西洋だって例えば吸血鬼あたりは、むしろ貴族のメタファーだから、異民族というより階級違いだったりするが、そのへん文化の違いというか、日本はちょっと特殊というか、欧米人はちょうど名誉白人といういい方があるように、むしろ日本人より上という位置づけだが、中国人韓国人は見下す対象なんだよな。ところが、飛鳥奈良時代だと逆に今の白人の位置に中国人韓国人がいて尊敬の対象だったのだから、節操がないというか。このへん、西洋人にしても日本人にしても、相手を見下すにしても自分を卑下するにしても、結局相手を同じ人間とは決してみなさないのはおんなじだというのがまた。