終末のイゼッタ 第11話

 またモンタージュ技法で〆(チョメ)々かよ。
 うーん、やっぱ意図が今一わからん。なんで核兵器(新型爆弾)と魔女を分けたのかというところがなんとも謎。それ以前に既にほゞ制圧状態にある小国に今更核兵器を使う意味がわからん。合衆国がヒロシマナガサキに原爆を落としたのには理由があって、もちろん今回作中で言われてた威圧というか恫喝というのもあるが、占領した敵国を本当に焦土と化してしまえば、その国の経済は破壊され、再生に一苦労する。威圧した後反撃してくるのであれば躊躇無く使えばよいが、もともとは反撃の意志を挫いて楽に相手国を敗戦に追い込むのが正しい使用方法。なんのための戦略兵器なのか。
 さて、核兵器と魔女の描き分けだが、これがなんとも。魔女という存在は視聴者にわかりやすく戦術兵器として動画化されてはいたが、それは形の上であってもとから戦略兵器として描かれていたわけで、なら核兵器のほうは要らないジャンということになる。一つ考えられるのは、ゲルマニアの新型爆弾はその使用される経緯が合衆国による日本への原爆投下のメタファーであって、イゼッタやゾフィーはそうではなく、科学者の分別によって使用を限定された核兵器という違いを示しているのかもということ。なら初めっから核兵器のことを書きたかったというだけの話で、視聴者向けに萌えアニメとして馴染みやすくしなくちゃという制約はあるにせよ、最初から科学者による技術の使用用途に対する倫理を描けよと思うしかない。結局新型爆弾もイゼッタもゾフィーも魔術という同一のカテゴリーに属するのであって、それは結局のところ両者とも科学技術のメタファーに過ぎない。そしてそれにヒトゝしての情が通ってないのが新型爆弾であって、情が通っているのがイゼッタやゾフィーという色分けをしているということになる。でもこういう筋立てだとはっきり言って機能してないと思う。これでは視聴者に対して新型爆弾と魔女は同一の根っこをもっているというのが凄く流れ的にあやふやにされている。というかテキスト担当はそこから逃げてるんじゃね?とすら思う。もうWWⅠの段階から近代戦というのは非人道的であったわけであって、それを実力差のある組織を対立させてそこにセンチメンタリズムを紛れ込ませて事態がどうにかなるというものではない。予防が重要なのであって、開戦の段階ではっきりいって勝負はついてる。いやまぁどう考えてもこの作品が自民盗の暴政をゲルマニアに喩えているんだろうなとは思うので、じゃぁもう結果のついてしまったようなこの状況に諦めるしかないのかという提示をするわけにもいかんので、そんな最初っからディストピアのみを描くってことはできなかったんだろうけど、なんつーか、見果てぬ夢を見せられてもねというのが実感。
 今回評価できるところといえば、イゼッタに対してビアンカゞ案ずれば案ずるほどイゼッタの自己犠牲精神が発揮されるところ。これ、どう考えても悪循環だよねという。典型的な滅びの美学って感じではあるが、まぁオモロイのは割とスタッフはこのシーンを肯定的、もしくは否定的のどちらか両極端に振って描いてないところ。キャラの表情のつけ方が半端ないので、どう考えても今回の話の一番のキモはこのところであって、割とこのような状況を作り出すためにいろいろ腐心したのかもと思わされる。前回フィーネはさっさと亡命しとけよという言及をしたが、そういう展開にしたら、小国の独立は失われるが、ヒトの命は一番失わなくて済むというあの状況下でのベストな解答になってしまい、このような業の深い展開を描く余地が失われるとみたほうが良いだろう。フィーネ(指導者)の無駄なこだわりが余計な犠牲を生むというのを描くという、それなりに意味があるんだろうなとは思った。