Re:ゼロから始める異世界生活 第11話

 鬼族の設定を和風にしたのはなぜ?。
 スバルの元いた世界をファンタジー世界のエミリアその他に説明できないという描写があったと思うが。鬼のことわざ云々も今スバルが伝えきれずにいることでもあるし。そりゃ日本人をターゲットにしてるから、日本特有の鬼概念を持ってきている以上アリとはいえるが、ちょっとこれは安直のような気がした。原作ではそういう感じではなかったと思うので、こればかりはアニメスタッフによるが…。まぁ難しいわな。
 うーん、いちおうお涙頂戴部分の構成はぬかりがないんだけど、結局これも死に戻りでリセットされうる項目でしかなくって、スバルにとっての重みが大きいほど、失うことによる陳腐化の落差はでかくなる。もちろんもうこゝに至って考えるに、そういうものを原作者が意図して作劇していると思わざるを得ないのだが、今後も死に戻りによる繰り返しがあることを知ってるだけに、もうジャンプ系アニメにおける敵のインフレ状態のような構造になっていて、ちょっと構造を見抜いた読者にとっては「はい、またですか、ワロスワロス」になってしまう。しかもセーヴポイント制という要素も確定したので、作中の劇的シーンは原作者のセーヴポイント設定による恣意的な重要度設定がなされるわけで、ホント死に戻りが本作の特性であると共に、そのことが致命的な欠陥も内包してしまうという結果になってしまっている。
 このやり直し構造が個々に起こる事象の価値観を相対化してしまい、そのことを提示することによるやり直しへの批判もなく、結局次なる展開へのさらなる刺激を必然的に求めてしまうという流れは、なんともめんどくさいところ。そのような構造を最后の最后で昇華しているかどうかは自分は読了してないのでわからないが、仮にそれまでのやり直し構造を内包して最后見事に構造を昇華させてくれるのでなければ結局視聴者は主人公の空回りにつきあわされるだけということになってしまう。将棋や囲碁でなぜ待ったが嫌われるのかという単純な問題を解決しているのかな?。スバル自身にとっては彼なりの(この世界での)人生を必死で生きているつもりだろうが、彼が死に戻りを繰り返せば繰り返すほど、彼の中に蓄積されていっている彼自身がかけがえのないと思っている事象が必然的に無価値に近づいてしまうって構造を彼自身はわかっているようには見せてない。少なくとも自分が読み進めたところまではそのことに対する言及はなかったと思うので、ぜひ物語の結論部分にはそのことを期待したいというか。