放課後のプレアデス 第4話

 ガイナックス宮沢賢治は相性がよいのかもな。
 太陽風セイリングとか昔見たなぁと思ってggってみたら、実用に向けて開発されているのは太陽光セイリングだったという。SFというのは、割とサイエンスフィクションと認識されている場合が多くて、もちろんそういう使い方も今となっては正しいとされてきてはいるが、元々はサイエンティフィック・フィクションが正しい用法。サイエンス・フィクションでのサイエンスは厳格な科学理論を下敷きにした…という意味合いが強いが、サイエンティフィックとなれば、それは科学っぽい何かであって、それっぽい雰囲気が出せていれば決して現実の科学的知見は要らないという。ニセ科学であっても良いわけだ。これはSFがジャンルとして確立されはじめた頃の名残というか、その頃はようやく科学的手法が研究者の間で共有化されて、いろんな科学的な理論や知見が統合されてきて現実社会に応用されてきた頃で、まだまだ大衆に科学知識が認知されていない頃、こんな技術があったらよいな…という夢を与えるジャンルであったころのもの。もちろんその頃は科学者にとってもそういう夢見がちな理論が実現可能か不可能か確実に断定できはしなかったろうから、そのへん夢がまだ夢であった頃の幸せな瞬間ではあったと思う。
 宮沢賢治もおそらくは知識として何が正しいかわかったうえで、彼の著作はニセ科学を元に物語を展開したり、時には正しい知識が織り込まれたりして、そこに彼自身の苦悩が表現されてたりするわけだ。ガイナックスガイナックスで、ガンバスターだとかオネアミスあたりの作品を見ればわかるとおり、製作者には正しい科学知識があってそれを下敷きにしながらも、ニセ科学を基本とする世界観で
物語が展開される。そしてどちらかというとパロディとしてのガンバスターが売れ、真面目路線のオネアミスがコけたのはその後の業界のあり方を考えるとちょっと残念には思うのだが、なんかこうやってこの作品を視聴してみるとガイナックスは萌え路線よりは宮沢賢治のほうに近づきたかったのかなと思わなくもない。
 それが今回の担当である金髪ツインテのキャラに、幼い容貌でありながら考え方は決して幼いというわけでもなく、むしろ現実的なところになにか感じるものがある。少なくとも今回の話、というかひかるのキャラ作りからは、「ヲマエら、このような容貌のキャラにこういう性格付けしとけば喜んで萌えてくれるんだろ」という意図は感じない。ガイナックスは前述のとおり、オネアミスから反省しガンバスターで気付かされて、視聴者に媚びる形で萌え路線に大きく変更していたわけで、そういう印象を持っていた自分からするとこれは丁寧な話作りだと思った。
 今回の話も、ひかるとひかる父母の間のディスコミュニケーションを通じて、やれ「やはり気持ちは言語化して直接伝えなきゃダメだよね」みたいな主張をしてくるのかと思ったら、たしかに言語化したコミュニケーションはひかると主人公、ひかる父とひかる母の間ではなされているが、けっしてひかるとひかる父母の間にはそれがないのだけども通じ合うものがあるということが描写されていて、これはなかなかにして琴線に触れるものがあった。そしてそのコミュニケーションについては主人公とみなとの対話において、「言葉をそのまゝ信じてよいのか」や「人間は果たして言語で物事を正確に表現できるのか」と問いかけられており、これはポエミーというより極めて現実的で哲学的な要素の強いものだと感じた。