天体のメソッド 第13話

 話の引っ張り方もうまいし、そのへん組み立てはなるほどゝ思うんだけど、今一スッキリしないんだよな。
 感動の最終回。この作品の視聴中ずっと引っかゝっていた点があって、それはこの物語が本当は何を主張したかったのか?ということ。結局ノエルと再会するということがミッションとされていたんだけど、この感傷気分を視聴者に訴えたかったのか?と考えるとすこぶる疑問に思っていたのだ。ノエルという名づけ自体が凄く不思議で、これ、仏語でクリスマスのことなんだけど、彼女は人間ではないわけであって、だからこそ名前には強い意味づけがされているはず。しかしこの作品にクリスマスの描写は全然なされていなかったし、むしろ主要な季節は夏である。彼女が葉の傘を差しているシーンでもしかするとコロポックルではないか?ということも考えられたのだけども、結局その後コロポックルであることが全然指し示されなかった。
 ちょっと気になるところは見返してみたのだけども、主人公はノエルのことを忘れてしまっていたし、その後思い出したところを確認しても本当に忘れてすまなかった、あんなに大切な存在だったのになんですっかり忘れていたのか驚きであるという描写もなかった。そしてその描写は先の展開を予想させないために必要な処理ではなく、本当にそうあっさりした表現にすることが必然であるかのようである。
 違和感があるところを挙げていくとキリがないのだが、冷静に考えてみるとこの物語で取り上げられている舞台やキャラがあまりにも象徴的であって、本当に言いたいことは実は別にあって、視聴者の眼前に繰り広げられている展開はすべてが暗示に過ぎないという錯覚を抱いてしまう。北海道が舞台であって、もちろん絵的には現実をよく取材してあくまで北の地の物語であるという雰囲気を醸し出してはいるのだが、よく考えてみれば北海道である必然性はない。
 自分にとって決定打は実は第1話でも描写があったひまわり畑だった。帽子が飛ばされ、何かの予感を得て外に出てみると眼前に広がるお花畑。で、それは何の確証があるというものでもないが、これは「墓場」の暗示なのだなと思ってしまった。
 で、これは舞台が北海道になっているのは目くらましというかフェイクであって、実はまったく逆の「沖縄」のお話なのかなという予感がしたのだ。要するに、これはキャラ達の感傷をテーマとしたものではなくって、極めて社会的な、というより政治的なものをテーマにしているのかもしれないという気にさせられたのだ。
 確証は全然ない。気になって脚本の久弥直樹をネットでggってみても葉鍵で一世を風靡した作家であるらしく、とても政治的イシューを取り上げるネームではない。むしろそのキャラの感情描写を前面に押し出す作家であるという結論しか出ない。自分も本当に前話を視聴している段階では、ノエルなどは人がかつては持っていたが、大人になったら失ってしまう何か大切な「心」にあたる、凄く抽象化された概念だと思っていたし、今ですらそういうものと考えたほうが説得性がある。が、そうだと結論付けてしまうと、今までのこのまだるっこい展開にしなくても、いや、もちろん勿体をつける以上そんなに具体的なものになるはずもないのだが、とはいえもっと効果的なお涙頂戴モノに仕上げることができたはず。公式サイトのイントロダクションにあった、円盤の出現時は世界中に話題になるほどだったのに、この物語ではすっかり日常化して全然そのそぶりも見せないし、だからこそ円盤の存在は現実のわれわれの生活でも具体的にあるものを指していて、そしてそれを円盤に仮託しているに過ぎないことはわかる。
 無粋なので具体的にそれが何にあたるのかいちいち説明をするつもりもないし、もちろんその可能性が非常に小さいってこともあるんだが、原作者もストーリーサイドのスタッフも現時点では決して語らないだろうからアレなんだけど、まさか、ノエルが実在すると考える視聴者はいないだろうし、主要キャラが中学生という設定でありながらどう考えても現実の中学生っぽくはないから、さすがにこれは語りたいことを直接語る作品ではないことは明らかなので、あとは材料を視聴者がどう処理してどこまでたどり着けるかという作品と考えるのは無理がないとは思う。そのへん語りたいことがあるように見せかけてその実あまり強いメッセージ性があるわけでもない幾原作品とは対極にあるものだとは思う。