たまゆら〜もあぐれっしぶ〜 第11話

 のりえのはっちゃけぶりは常軌を逸してるな。だがそれがいゝ。
 私たち展と三谷の振りかえり。そういやぽって父絡みは今回無かったな。
 どこを受験するのかわかんないのだが、年末にイヴェントに参加できるんだったら、別に部活動を続けていても問題は無いような気が。普段勉強をやらずに受験前に集中して対策するのがおかしいわけであって、本来日々の勉強を大事にして、それと平行して自分探しなりやりたいことなりをやってれば済むような気が。
 女というか、人間雰囲気だけで泣けてしまうのでアレだが、三谷はおそらく写真部に入っていなかった場合の自分のことを想像できるから泣けるんだろうね。私たち展は、やっぱ人を楽しませるというよりは自分が楽しめるからという部分が大きいが、とはいえ、しっかり他人のことに想いを馳せることができる彼女達だからこそではある。というか、女子高生だから私たち展というイヴェントに人は集まるのであり、よっぽど魅力的か知名度がなければ一般人の取り組みはスルーされるんじゃないかと思ってみる。ファンタジーではあるが、イヴェントに人が集まる要素とは何か?を考えるのが楽しかったり。この作品って、マスコミ主体の娯楽は巧妙に排除されており、手作りの催しを前面に出してるんだよね。たしかにそれは現代人にこそ必要なものではあるんだけど、そうおいそれとできることではないというのを考えると、この作品で提示されている手段が現実的かどうかは置いといて、自分にとってどうすればそうなるのかということを考えなければならないんだろうな。まぁそれが仕事だけに明け暮れるという生活では話にならないだろうし、だからこそ受験生である三谷が年末まで勉強と部活を両立させていたという描写が必要だったんだろうなという気はする。
 私たち展で提示されたもう1つの社会のあり方が、提案の仕方。「これいゝね」といった意見が素直にそのまゝ取り上げられること(紐でつるす)もあれば、そういう意見に対して他のやり方のほうがよいという提案が取り上げられること(受付の写真をどうするか)もあるという二つの対照的なものがあった。これ、ダメ組織だと提案の優劣を客観的に判断できなくて、出世したい人間の案がゴリ押しされたり、管理職が自分の面子をつぶされたくなくて優秀な提案を潰したりすることがよくあるんだが、そういうところでは機能しないよな。まぁすんなりいろんな意見が尊重されて落ち着くべきところに落ち着くって描写なのは、歩って達の今までのあり方からすると当然なんだけど、じゃぁそういう風になるためにはどうしなきゃならないのかというのも考えさせられる。まぁ当然の帰結として、成員によるとしか言えないというのがとても悲しいところだが。
 あと、1歳だけとはいえ、年下のぽってが部長であり、そのあり方が特に年下上司のありかたとは?というのもこのシリーズを通して考えさせられた。逆にいうと、今まで能力もないのに年上だからと威張ったりして組織が停滞するというのも考え物だったんだなということにもつながる。問題はかなり複雑で、この作品の場合には創業者が単に年下で、三谷はあとから加入したというだけだし、写真部はたった二人で、二人より年下がいないとかいうかなり問題がおきにくい環境であるということもある。今、企業なんかでも年下の管理職が当たり前になってきているが、運営能力や対人関係に問題がなければよいが、単に会社の目先の業績をあげるために最適だからといって出世したのであれば、それは本当に望ましいことなのかとか、普通経験を積めばスキルもあがるし、周囲のことがよく見えるようになるはずだが、逆に仕事を続けることで身につくスキルが数年で役に立たなくなる世の中の変化ってほんとうに望ましいことなんだろうかなんて問題もあって、一概に何が正しくて何が間違っているのかいえないってのがね。いやもう年齢関係なく人と人とが尊敬しあえる社会ってどうすりゃ築けるのってとこだわな。それが権力を持ってりゃどんな悪事でも働けるってのを政治屋が実践して幅を利かせてる現状で、他人を傷つけてどんどん自分の利権を広げようとする管理職が増えているのを見ると、なんか暗澹たる気持ちにはさせられる。欲深い人間にはやさしく言い聞かせたところで何の役にも立たないし、むしろ欲深な人間の意見を尊重しようものなら、ますます状況は悪化する…というかしてきたわけで、この作品で示されている心のあり方が、相手によっては逆効果ってこともかなりあるんだよね。この作品は「場を荒らす人間」がいないだけに、リアリティが無いのは初めっから承知の上で、だからこそ現実との対比でよけいに泣かされるという。